永年勤続旅行“ゆうとりっぷ”豪州紀行メモと配信先の皆様からの読後感など |
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Subject: AUSTRALLIA 1993 ゆ う と り っ ぷ 豪 州 紀 行 メ モ
1993年6月10日(木)〜15日(火)
以下は5年前に"ゆうとりっぷ"でオーストラリアを訪れたときの様子を翌年になってから記載したものです。長文で目を通すのも大変かと思いますが、暇をみつけて拾い読みしていただければ幸いです。なお、多くの方にはハードコピーで配布済みの文章です。
コメントなど頂戴できればなお幸甚です。「いい加減にしてくれ!」というご叱正でも結構です。 1998.10.28
この本には真上から撮ったオペラハウスとその内部の様子が詳しく紹介されています。
ま え が き
永年勤続者の功労に報い、会社で費用を負担して旅行を企画提供する制度が発足したのが昭和46年。今では多くの企業が同様の制度を整えている。
トヨタが労使交渉の末スタートしたのは最も早い時期だったと記憶する。
行き先は勤続年数により異なり、ハワイ、香港またはグアム、台北またはソウル、国内となっていた。トヨタ新聞に載る定年退職者の声で在職中のもっとも印象的な思い出として"ハワイ旅行"を挙げる人が圧倒的多数を占めたように、 当時としては画期的な制度であった。
最近は貿易収支インバランスによる過剰外貨の捌け口として就職前の女性までが当然のように海外旅行をするし、行き先も多彩かつ遠方、長期間の豪華版である。
父ちゃんの会社が円高で青息吐息というのに、娘や母ちゃんは、旅行先の物価がバカ安で「行かなければ損!」とばかりに、買い物ツアーに狂奔する。
会社人間の我々も、海外出張は日常茶飯事となった。2、3年前のピーク時には部内のみで5,6人が海外へ出ているという状況が珍しくなかった。
そんな中で、公私とも全くの海外未経験者という我が夫婦はシーラカンス並みの時代超越者だったかも知れない。
不況続きでトヨタの経常利益が年々低下する中、永年勤続旅行(いつからか、"ゆうとりっぷ"といっている)が中止になるのではないかという噂が真実味をもって語られるようになり、資格はできても定年になるか、出向・転籍にでも・ならなければ参加申し込みをしないという風潮がすっかり変わり、早目に行く人が増えた。
私もハワイAというツアーへの参加資格ができた一昨年にさっそく申し込み、"8月に説明会を聞いて、10月に出発する"というスケジュール表を受け取るところまで話が進んでいた。しかし、説明会の直前、嫁さん(○美、以下H)がこの時期に私と海外へ行くことに難色を示すのでキャンセルしてしまった。
結果的には、それが良かったともいえる。年が変わると、新たに豪州ツアーがメニューに加わった。日数は1日短いが、余りに日本人旅行者が多いハワイよりましでないかと期待して、これに応募した。
今は旅行から帰って既に1ヵ年が過ぎようとしている。生々しい記憶は消えてしまったが、写真と僅かばかりのメモ書きを頼りに、旅行とその前後の様子をしたためて置こうと思う。
1994年5月
4月30日(金)<パスポート申請>
JTBに寄り、そこでの用事はすぐ終わったが、隣の旅券センターへパスポート申請書を提出するのが大仕事だった。連休の初期で大変な数の申請者が押しかけ長い列をなしていた。多くの窓口が開設されているが、チェックが入念にされるので、1時間半以上も掛った。
5月 7日(金)<ゆうとりっぷ説明会>
9時半にトヨタ会館Gホールになるべく夫婦揃って参加してほしいという説明会に妻○美(以下、H)と出席。参加予定12組24名中15名が顔を見せた。経営企画部の山前(やまざき)さんは、この日来ておられなかったけれど、目がかなり不自由でありながら一人で参加されるという。「皆さん、なるべく手助けしてやって頂きたい」という話が人事部の係員からあって、あとはJTBの2人が手際よく各種の説明、注意、保険の受付などをした。
顔見知りは、デザイン部からトヨタ博物館の主査として1月に異動した山内さんと山本さん(サービス部)の二人のみ。他に名簿で森さん(元特許部)がいるが、東富士の第11技術部勤務ということで本人は来ていなかった。
5月13日(木)<パスポート交付>
午後、半日年休を取りHと共に名古屋へ出て、旅券センターにてパスポート受取り。
この日は申請者の列もぐっと短く、我々のときの1/3くらいだった。
この頃は、月末29日(土)に横浜中華街の聘珍樓で行う"七和会"(名大応用化学科昭和36年卒・クラス会)と19日(水)にベルフラワーCCで予定しているサンロク会ゴルフコンペ前哨戦の幹事としてそれぞれ36名、45名への連絡やら出欠回答などが輻輳していた。
この日の午前中に、籏智さん(七和会)の肺ポリーブ摘出手術がうまく行って、出社できていることが確認できた。荒井さん(サンロク会)も珍しく電話してくれて、「来週は外人客を自宅に呼ぶことになっているので参加できない。6月のゴルフコンペG7の方も平日のフィックスは難しい」ということだった。
ついでに荒井さんの近況を聞いたところ、長男はトヨタ車体の工機部に入社しており、次男は学生で九州にいるとのこと。彼は栃木県宇都宮の出身で、郷里には母親と兄弟がおり、彼が東京住まいとなった最近は、親戚との行き来も盛んになっている様子だった。
6月10日(木)<出発>
G7のゴルフ予約で4組中1名の欠員が出たので、当初欠席と届けのあったメンバーに念のため連絡しておいたら、2人の希望者が出てしまった。私がプレーを止めてもよいが、まだ開場前のゴルフ場で、無料でやらせて貰えるなどというチャンスは今後2度とないかも知れない。無理を承知で、1組増やして頂けないかとベルフラワーCCへ申し入れ、保留になっていた回答が朝自宅宛てにあった。OKとのこと。
舘さんの出勤時刻を見計らって電話して、該当者への通知と更に余裕ができたことで、山田雄愛さんなどへの勧誘もするよう頼んでおいた。
16:45 本社バスターミナルに集合。
ツアーメンバーは山本さん、林さん(購買企画部)、巌さん(トヨタパーキングネットワーク)、酒井さん(トラック特装部)、山内さん、古田さん(豊田通商)、森田さん (研修センター)、山田さん(第7生技部)、笹崎さん、山前さん、森さんといったところで、それぞれの奥さんが同伴され、古田さんは幼稚園児かと見える娘さんを含めた3人連れ、山前さんは前に記した様にお一人である。なお、酒井さんと古田さんは、空港へ直行された。
17:00 出発。
18:00 名古屋空港到着。
長女(以下、C)にみやげとして頼まれている品を免税店で探した
が、見当たらない。
20:10 離陸(カンタス50便)。
時計を現地時間に合わせるため1時間進める。
JTB添乗員は木村さん。小柄で気さくな20代中頃の女性と見えるが、後で聞いたところ、30代も後半とか。「お婿さんをお世話してあげたい」という声が出るくらいに終始仕事振りが爽やかであった。
6月11日(金)
4:30 ケアンズ着。
到着前に、持ち物には何も申告すべき物はないと一旦書いたが、「食品には特別厳しい」と木村さんから聞いて、Hが機内用に少しばかり持ち込み食べ残していた細々した菓子類を書き上げた。そのために出口も別室経由となった。最後に書き足したUMEBOSHI" という単語を見て係官はニヤッと笑い「Oh! UMEBOSHI OK!」と簡単に通してくれた。
金属感知機のゲートは、複数の係官の他に離れた位置から監視する警備員が立っている。時計、カメラなどしか持っていなくても、警報音が鳴って怪しまれるのではないかと緊張して通過。あとから来る人たちの様子を撮影しようとしてカメラを構えたら、警備員に制止されてしまった。
6:30〜8:00 空路、ブリスベーンへ。
現地ガイドは松井真理さん。この人も小柄であるが、ハキハキした話ぶりと達者な英語でバスの運転手とも意気が良く合う。
ブリスベーンの中心街には、高層の新しいビルがいくつかある。その中で関東大震災並みの地震に耐えられるのは日本の建築家が設計した二,三の建物だけだろうとのこと。ここは元来地震など心配ない土地のようだ。
マウントクーサ展望台で記念撮影、ローンパインコアラ保護区見学後、市内に戻り昼食。ローンパインでは、コアラを抱いて写真を撮ってもらうことができる。コアラの方も慣れたもので、格好よく抱かれ、カメラに顔を向けるタイミングがお見事。
14:00〜15:00 バスでフリーウェイ経由ゴールドコーストへ。免税店に寄って16:00 マリオットホテル着。
正式名:MARRIOTT SURFERS PARADISE RESORT
158 Ferny Ave,Surfers,Queenland 4217,Australia
(075)929800
ブリスベーンからゴールドコーストへ向かうハイウェーの両側はユーカリの林である。ユーカリの大木を見ていると、その根元付近が黒く焼け焦げている木の多いのに気づく。油分を多く含むユーカリの葉が落ちて、乾期に自然発火することがある。あの黒焦げは、小規模な山火事の跡ということである。今年の始めにはワールドニュースとなる規模の山火事があったが、原因は多分同じと思われる。
それと関連するが、林の中で焚き火をされては危なくてしょうがないと言うことだろう。あちこちのキャンプ地には、バーベキューをする施設が整えられており、燃料費は無料で常時使用できるようになっている。
マリオットホテル1405号室泊。建物は32階建。2年前に完成したばかりの超豪華なホテル。「自費予約の旅行では、もう一生こんなホテルには泊まれないだろう」と誰かが言っていたが、正にその通り。 部屋に入ると、リボン飾りのついたワインがテーブルに置かれ、豊田達郎社長からのメッセージが添えられていた。永年勤続をたたえ、"ゆうとりっぷ"を十分堪能して戴きたいという趣旨だった。
19:00 ホテル1階のレストランにて夕食。この席で、山内さんはワインについて「社長のご配慮が素晴らしい!」と感激した様子で話していた。
昨夜のフライトで睡眠不足の上、あちこちバスで回って疲労が早くも極限という方が多く、近くの繁華街へ繰り出そうという話はないまま就寝。
6月12日(土)
7:00 朝食。
8:00〜15:00 オプショナルツアーでカランビン野鳥園及びゴールドコースート郊外のシーワールドを訪れた。森田さんは既に行った経験があるため、また巌さんは奥さんが旅行直前に足を挫いて歩行困難のため参加を見合わせた。
カランビンでは朝夕、野鳥に餌付けをするのであるが、野鳥の集まる時間が限られているので、早い出発となった。
海岸線を南に走りゴールドコーストのビル群が見渡せる浜辺で一時下車。この辺りの浜の砂はキメが細かく、素足で歩くとキュッキュッと音が出るので"泣き砂"というとか。
カランビンまでの車中、オーストラリア最大のショッピングセンターとか、カジノとか、郷ひろみが新婚旅行で泊まったホテルであるとか、真理さんがいろいろ説明してくれるがあまり興味をそそられない。ただ、ところ変われば・・と思って聞いたことは、住宅地の場合に角地が好まれず、概して単価も安いという話である。通りに面した庭は芝を植えてきちんと管理することが義務づけられているので、角地に家を建てると2倍手間が掛かるとして嫌われるのだそうである。
野鳥園は以前、ここで農場を経営していた人が野鳥に作物を荒らされないように、餌を毎日与えるようにしていたところ、集まる鳥の数がどんどん増えて来たことと、他では見られないほど美しい鳥であったことから観光資源にしたという。
入園すると餌付けの広場があって、その周りの木々の梢に鳥が集まって来ていた。しかし、係員が餌を入れた皿をかざして呼び寄せようとしても近づいてこない。木村さんが係員に理由を尋ねたところ、上空に鷹がいるらしく警戒しているのだそうだ。
広い園内を先に回ることにした。カンガルー、その他、豪州特有の動物や鳥類が放し飼いになっている園内を徒歩で歩き、途中で行き合ったツアー仲間と写真を撮り合ったりした。係員が餌を与える時、呼び声を聞いて集まるカンガルーの様子が可愛く、ユーモラスでもあった。彼らは人を怖がらず、食事中に触れても嫌がらなかった。
カランビン野鳥園の観光客の8、9割が日本人という感じで、外国の公園に来ているという気がしない。それは前日のローンパインでも同じこと。中には台湾とか韓国からの客もいることが言葉から分かるが、外観の差異が少ないので東山植物園にでも来ているかの錯覚に囚われがちだった。
出発時間が近づき、集合場所に早足で戻ってきた時、丁度野鳥が餌付けの人の群れに集まり始めていた。
餌はパンくずをほぐして水かスープかに浸したもので、ステンレスの浅い皿に入れて手を挙げていると、鳥が舞い降りてきてついばむ。皿にとまり、手にとまり、つぎつぎ数が増してくると、頭の上にまで留まる。鳥は反時計回りにまわりながら降りてくるが、初めの内は、Hの皿をかすめて飛び去り、数人先から右側の人達にばかりにとまっていた。2分程そんな状況が続いて、「どうして私のところに来ないの?!」と不満顔だったHにもやがて7,8羽がまとめてとまり、腕といわず、頭といわずもみくちゃにされる程の大盛況となった。私は専ら写真を撮りまくった。
バスは出発時間を10分ばかり遅らせ、興奮冷めやらぬ面々の乗車を待っていた。
往きと同じ道を引き返し、ゴールドコーストを通りすぎ数キロ先のシーワールドへ直行。入口にバンジージャンプ(bungy jump)の飛び降り台があった。季節外れのためか誰も試みる人はないようだったが、嫁さんの前でやって見せてやりたいような気もした。
ゴム製の命綱を足に固定して10数メートル下の水面すれすれまで飛び込むのである。昔見た記録映画では、蔦を足首に巻きつけて崖の上から飛び降りるというもので、これをやらないと一人前の男と認められず嫁さんを貰うこともできないという、ある部族の
儀式だった。上記のバンジージャンプは体重に合わせたゴムの太さが計算済みで決められており、心臓発作などの突発事態さえ起きなければ安全と言えるが、天然の蔦のツルで、下が地面か谷間の岩肌でもやって見たいかと言われたら尻込みどころか、とてもそんなこと冗談にも言えたものではない。
ここではイルカのショーと水上スキーの集団演技が見所である。入場と同時にショーが始まり、そのあと自由時間になり、出発1時間前に場内の中華レストランに集合して昼食となった。ここで山本さん夫妻がヘリコプター遊覧をして素晴らしかったという話をした。我々も発着場のそばを通り、料金も手頃であると感じていたが、風が非常に強いので、危険ではないかと見合わせていた。話ぶりに刺激され、あと30分しかない時刻に駆けつけ、最短の5分コースなら間に合いそうということで、10分ほどの待ち時間の後新婚の見知らぬ二人と一緒に搭乗した。実質7分間の空の散歩は、エキサイティングで十分楽しめた。費用は30A$。他に10分、20分、30分などのコースもあるが、これ以上乗りたいとも思わない。足をふらつかせながら、ヘリ体験者顔をしてバスに戻った。
バスはホテルの横を通過してゴールドコーストの繁華街まで我々を運んだ。ここで大半の人が下車して銘々ショッピング。帰りのタクシーの乗り場とかチップの適正額が幾らかなど、真理さんの注意を聞いてから街に散っていった。
我々も同じように降りた。そして旅行中初めてで、唯一の単独行動をした。まず入ったのが、街の住民のためのスーパーマーケット。野菜、果物が安い。ただし、果物は日本の店では多分並べないだろうというような外観だった。色が不揃いで、形もいびつなものが目立った。しかし、そんなことは皮を剥き食べる時点ではまったく関係のないことである。
超一流のホテルやレストランで出される果物でも、スーパーで見たのと変わらない。日本人は外見にうるさく、結果的に余分な手間を生産や運搬にかけさせて高い対価を負わされているのである。
つぎにアーケードの両側に並ぶ観光客相手の店を物色。私はゆうとりっぷ帰りのみやげを職場に配らないよう会社より注意されているし、その手のものに元々関心がない。Hは食べ歩きの仲間や娘達に、嵩張らず値ごろな品を買っていかねばと必死に探していた。
実は旅行前にみやげ品を手配できるという通販サービスがあり、オペラハウスの写真を印刷したマカデミアナッツ入りチョコレートとテレホンカードが10人分ばかり準備してあったので、ここでは5A$のキーホルダーなど小物を20点ほど買った。支払いを終えるとおばちゃんがサービスだと言ってオーストラリアの国旗をデザインした野球帽を2つくれた。彼女と一緒に店の様子を撮影してもよいかと尋ねると、快くOKしてくれたばかりか、奥から主人まで呼び出し並んでポーズをとってくれた。主人はJ・ニクラスにそっくりだった。
暗くなる前にタクシーでホテルへ帰館。
夕食はゴールドコーストの南側の外れにあるシーフード店"RIVER INN"へ送迎バスで出掛けた。ここでは全員、新鮮な素材に目をみはり、量の多さには圧倒された。大皿に野菜と共に蟹や海老などが盛りつけられて運ばれ、4人ずつ就いたテーブルに一つが置かれたとき、「こんなに4人で食べられるだろうか!」という声が上がった。しかし、それは対面する2人分であるとして、もう一皿が届けられ、驚きは"おののき(戦き)"に似た感情にまで高まった。蟹の絵がプリントされた紙製のエプロンを掛けて、顔を紅潮させながら大蟹のはさみと格闘する山本さんが可愛らしく見えた。
ここまでに豪州へ来てからの気候のことに触れていない。6月は日本の12月に相当する時期である。当然、防寒の用意を整えて出掛けたが、9月中〜下旬くらいの気温という感じだった。この日は前にも書いたように、ひどい強風が吹き荒れ、夜のニュースでどこかの大木が倒れたというような報道がされていたほどだったが、シーワールドではノースリーブ、背中丸出しの格好で歩いていた観光客がいたのには少なからず驚いた。確かに風は強くても、冬の風という感じはまったくなかったが・・・・。
6月13日(日)<シドニー入り>
6:00 モーニングコール。
6:30 荷物出し。
7:00 朝食。
8:00 ホテル出立。
9:00〜11:00 シドニー空港着。ガイドは古荘(ふるしょう)さん。茨城県生まれ、色黒で小柄。やや太目であるが引き締まった体型の女性。声が鼻にかかって少し聞きづらい。
シドニーに入る前に、古荘さんは「この街では最近失業率が高く、日本人観光客を狙ったひったくりが多発しています」と述べ注意を促した。運転手がマイクロバスから降りて10秒ばかりよそ見している間にバスごと車中の荷物が持ち去られたという例さえあるとのこと。
繁華街に来ると「この辺りは街娼が大勢立ちます。オーストラリアの女性を堪能してみたい方は是非あとでお越しください。オカマもいます」と真面目くさった顔で言って直ぐ、「ただいまオーストラリアではエイズ患者が大変な勢いで増加しております。その背景として麻薬の蔓延がありますが、麻薬の取締り以上にエイズを防ぐことが緊急の課題であるということで、市当局が注射針の無料配布とか繰り返し使用しないような呼びかけをしております。無防備な性体験はエイズの持ち帰りにつながる危険率が高いことを十分お考えおきください」と一行を脅した。嫁さん連れで来て、そんな行動に及ぶトヨタマンがいるとも思えない。
中心街のレストラン"ARGYLE WOOLSHED"にてバイキングスタイルの昼食。食事中にプロカメラマンがスナップ写真を撮る。この時が初めてで、事情が分からぬまま撮られ(ツアーの費用に含まれるかと錯覚)"大きく引き伸ばした写真を買わなければ無駄になってカメラマンが気の毒"と慈悲心にかられて、少し高すぎると思いながら応じてしまった。
ARGYLE WOOLSHED で昼食のあと、出口右側の2階建の建物の中にある20ほどの土産物の店を物色。細々した品は、ほとんど台湾製か韓国製である。絵はがきの場合、他所でも数枚をセットで売っている例はなく、すべてバラ売りとなっていた。単価は安くなかった。一番人だかりしていたのは、ガラス細工を実演しながら売っている店だった。建物全体に照明を暗くしている中で、ガスバーナーの火と赤く溶けて形を変えていくガラス棒が誘蛾灯のような効果を発揮して、店の前はもとより、脇の階段上まで立ち止って見る人垣ができていた。
オペラハウス前の広場は各自スナップ写真を撮る程度の小休止。対岸にまわって遠景にオペラハウスが収まるように全員の記念撮影。H は今回の旅行で何よりもこの建物に期待をかけていたが、これでは日本にいてパンフレットの写真を見るのと何ら変わることはない。"シ ドニーの7日間"という観光案内書を購入して、その中の写真を見ると内部は外観に劣らぬほど、凝った造りがされていた。そこで上演さ れるオペラを見られたらHも私もオペラに対する認識が180度変わったかも知れない。
この日と翌日の宿、ルネッサンスホテルはオペラハウスから数百メートルの距離。道を挟んだ向いの免税点で用紙の配布を受け、利用方法の説明を聞いてから入館した。
ホテルの正式名:SYDNEY RENAISANCE HOTEL
30 Pitt St.,Sydney NS 2000,Australia
(2)2597000
19:00より市内のシアターレストランに出掛けディナーショー。
満席に近いが、ショーの内容は陳腐だった。とくに男性歌手のレベルが低い。中国人のスリルと力感に満ちた曲技が目を引いた。
6月14日(月)<オプショナルツアー>
ダーリンハーバーを見てから、バスで片道約2時間のブルーマウンテンへ。ここは標高1,200メートルの高地であり、今までのよう な着衣では寒いと警戒して出掛けたが、屋外に立つ時間は短いし、前日までの格好でも過ごせる程度だった。
ユーカリの原生林の谷間からブルーがかった妖気が漂う。これはユーカリの発する油分の蒸気とのこと。谷を挟んだ向こう側にそそり立つ3つの岩にまつわる伝説が車中で伝えられた。この岩は美人3姉妹が変身させられて出来たものという話であるが、どう見てもあの岩に女性を連想できる要素は感じられなかった。
古荘さんは、このユーカリ原生林のどこかに何百平方メートルかの土地を所有していることになっているという。それは原生林を現状のまま後世に伝えるための資金を寄付した見返りに、形式的な登記書類を頂いているということで、私権を行使できるわけではない。昔、日本の天文学会が火星の土地を売り出したのと同じ発想による募金協力である。
ブルーマウンテンの展望台から出る2つの乗り物がある。ロープウエーとケーブルカーであり、2つまとめて利用できる券は割安になっている。バスの停車時間が限られ、それぞれの待ち時間も10分余りあるので、両方は無理と見てロープウエーの方を選んだ。
ロープウエーは、深い渓谷をまたいで向こう側にそびえる3つの岩の方向につながっている。当然、その岩まで行くのかと思っていたら、谷の中央で停止し、写真を撮らせるだけの間をおいて引き返すのみだった。グレッグ・ノーマンがよく被っているような幅広のツバがついた帽子姿の中年男がガイドとして同乗していた。彼は若い女性客に話しかけながら谷底を指さして、彼女たちが怖そうに覗き込んでいると、突然ゴンドラをわざと揺すったりして、悲鳴を上げる様子を楽しんでいるといった仕事振りだった。
バスの発車時間までに僅かばかりの買い物をするのがやっとだった。私は、この地域の観光地図帳を買った。地図など本当は欲しくなかったが、その中に出てくる広告のカットの1枚が素晴らしくて見逃せなかった。それは若い男女が種々のスポーツ姿でどこかへ駆けつけるポーズを図案化したものだった。
乗車と同時に出発かと思ったら、まだ3組ほどの夫婦が見当たらない。彼等は2つ
の乗り物に乗ったとして10分ほど遅れて戻ってきた。Hは過度なほど几帳面であるから、こういう行動はとてもとれない。これで出発かというとき、まだ一人、山前さんの姿が見えないことに木村さんが気づいた。乗り口付近の数人が探しに飛び出して行ったが、間もなく「どこにも居ない!」と言って引き返してきた。
しばらくすると、山前さんが予想外の方向から帰ってきた。U字型にターンしている道の反対側に停車中の他所のバスの前方から、目が不自由とは思えない急ぎ足で近寄り、その車に乗り込んでしまったのだろう。バスの後に出てこない。
というようなロスタイムがあって、そこから10分ほどの距離にあるホテルへ行き昼食。正式名:Hydro Majestic Hotel
入ってすぐの広間はフリの客用のバイキング食堂。その右はみやげ物売場。
我々は左へ曲がり、長い廊下を通り奥の少し陰気な感じの広間に案内された。その通路右側の窓の眼下には、ユーカリの原生林が広がっていた。その先、食堂近くの部屋入口のドアガラスにエッチングによる装飾図柄が施されていた。簡潔ながらすぐれたデザインであると感じた。図中に"The CASINO LOUNGE" という文字が彫り込まれていた。
料理はここに限らず往復の機中を含めて、バイキング以外の店ではどこでも、肉、魚の二通りのメニューが示される。そんなとき私は肉を選び、Hは魚を食べるようにしていた。
肉は概して堅い。日本人と欧米を含めた豪州人との好みの違いで、彼らは歯ごたえがある堅さの肉を最良とするようだ。最近は豪州産の食肉も多く日本に入っているが、これは日本人向きに柔らかい肉となるような飼育方法が採られているので、産出国別の比較にはならない。
食堂から玄関に戻る途中に休憩所を兼ねた広間があり、ここにクリスマスの飾り付けがされていた。12月のクリスマスでは、当地は初夏のため気分が出ないということで、南半球に相応しいやり方でクリスマスを祝うのだそうである。6月のクリスマスといっても、この辺りでは雪など望むべくもない。しかし、それではムードが出ないというのが英国本土から渡ってきた人達のセンスだろう。ツリーには白い綿がふんだんに掛けられていた。
シドニーに戻り、前日とは別の免税店の前で下車。Cから頼まれていた香水と同じブランドネームを掲げるコーナーで尋ねたが置いてないという。「ホテルの前の店にはあった筈」とHがいうので、そちらへ出向いてやっとノルマを果たした。正式には香水扱いの品ではなく、男性用のオーデコロンとか。免税品は厳重な梱包がされ、豪州を離れる前に開封することは堅く禁じられている。
この日は英国エリザベス女王の誕生日に当たり、豪州でも祝日になっているという。そんな説明を朝方ガイドさんから聞いていたが、すっかり忘れていて17:30ころTMCAメルボルンに電話。中川豊文社長はいないかと尋ねると、「つい先ほどまで出社されていましたが、もう帰宅されました」とのこと。「それでは社長の自宅の電話番号を教えて戴きたい」と申し入れ、後ほど連絡をくれるようにとホテルの番号を伝えておいた。
10分ほどしてベルが鳴った。先ほどの人からと思って出ると中川さん本人だった。会社の様子、暮らし向きなど20分ほど話した。一緒に来ている中に彼の出身職場である海生技術部の笹崎さんがいることなども伝えた。笹崎さんは、中川さんの豪州赴任の際に、空港まで送り届けてくれたとか。
笹崎さんとは2日目の晩にホテルのロビーで中川さんに関連したことをいろいろ話した。奥さんは身体があまり丈夫でない様子で、いつもどこかが痛むのか辛そうな顔をしていたが、主人と私の話が弾んでいる様子をそばで聞いているときは、本当に嬉しそうに見えたと後刻Hが言っていた。
19:00 バスでホテルを出て、和食レストラン"勇"にてサヨナラパーティー。
木村さんに促され、年長の山前さんが挨拶に立ち旅行全般を総括するスピーチをされた。
このツアーはゆうとりっぷに今年取り入れられて2回目であるが、観光地の選び方や日程に無理がなく、とりわけ素晴らしいホテルを利用できて感激したこと。木村さんの付かず離れず頃合を心得たガイドぶりの適切さ、そして目の不自由な彼に食事の都度、手を貸してくれた皆さんへのお礼など、さすが年の功というか私など突然指名されたら、とても考えが及ばない隅々まで配慮された名スピーチだった。
洋風のメニュー攻めの数日を過ごした日本人の身体には、和食を見ただけでほっとした安堵感がこみ上げてくる。ここは店の造りから、従業員の和服姿まで徹底して日本式を通しており、味の方も本国の一流料亭に劣らないと感じた。
卓を囲んでの会話も、これまでになく弾んだ。
トラック特装部の酒井さんは海外経験が長く、西欧人の女性に対する接し方をうまくモノにしている様子。よその奥さんにも気分よくさせるようなセリフをさり気なく言う。
彼の奥さんはオカッパ頭で話し方も30代くらいにしか思えない若々しさがある。それでも更年期なのか、結構あちこち身体の悪いところがあって、東富士にいたときは半病人 だったとか。今は大変元気そうに見える。彼女はシンガポールへ行くのが長年の夢で、今回も一般のツアーを選んでそちらへ行きたかったのだそうである。「しかし、オーストラリアも来てみて本当に良かった。でも、そのうちにこのメンバーで是非シンガポールへ行きましょうね」と何回でもあこがれの地名が話の中に出てくるのだった。
ペットの話が出たたとき、「うちでは7匹の猫を飼っている。もっと多いときは、生
まれたての仔猫を含めて15匹いた」と言ったら、ひとしきり猫の話で持ちきりになった。
「一緒の親から同時期に生まれた猫でも、一匹一匹個性があり、性質も違えば食べ物の好みも違う」、「うちの猫は概して魚が嫌いで、煮魚を目の前に出しても知らん顔しているのが多い」、「小さいときに変なものを食べさせると、猫らしくないものが好物になってしまうようだ。キュウリが好きで、刻み始めるとどこにいても飛んできた猫がいたし、ミカンの皮を剥くとその香りで分かるのか、寝ていても飛び起きてねだる子もいた」・・・・と延々続いた。
中でもバカ受けしたのは「私が帰宅しても、女房は台所にいたまま、お帰りなさいとも言わない。それに引き替えうちの猫は、車が停まる音がしただけで玄関にいそいそやって来て、三つ指ついて出迎えてくれる」という話。一人一人が3本指を差し出して、こんな風かとやって見せながら大笑いした。
後日、酒井夫人はそのときのスナップ写真を送ってくれた。添えられた短い便りには、"ミツユビ猫ちゃんによろしく!"とあった。
6月15日(火)<帰国の日>
4:45 部屋の前に荷物出し。
5:15 ホテル出発。シドニー空港へ。
6:00〜6:30 空港にて朝食。
8:00 カンタス59便にてケアンズへ。機内でも早々に朝食デリバリー。
2時間飛行、空港で1時間待機後同機で帰国の途に。山前さんに初めて
隣合わせる。
18:40 名古屋空港到着までに、昼食、給茶、夕食。
荷物受け取りに1時間を要す。入国手続き後、春日井IC経由、バスにてトヨタ本社へ。
21:00 解散。山前さんは愛知環状鉄道で岡崎へ帰られた。
手打ちうどんのサガミに寄り、22:00帰宅。
猫達は全員無事。
ケアンズを飛び立って、しばらくすると眼下に大珊瑚礁"グレートバリアリーフ"が見られる。規模は世界最大。日本列島に匹敵する長大な珊瑚礁の海が続いている。北はパプアニューギニアに近いトレス海峡から、南はグラッドストーン沖までの約2,000キロにわたって大小700以上もの島が点在するという。まさにダイバー達の憧れの地である。
山前さんに窓際の席を譲り、グレートバリアリーフを見せてあげようとしたが、殆ど何も見えないとのこと。代わりに彼のカメラに写真を撮ってあげることにした。旅行中、私は36枚撮りフィルム6本を使ったが、彼は私よりも沢山の写真を撮ったかも知れない。
自分の目で普通には見えないものでも写真に写しておいて、あとで目を付けるよう
にして見れば、ある程度判別できるそうである。旅行から4ヵ月後に、山内さんのいるトヨタ博物館に山前さんが来られたと後日伺った。
そのときも一般交通機関の路線バスを利用して来て、写真を一杯撮って行かれたらしい。
旅行中に搭乗した航空機はすべてカンタス航空だった。この会社のもっとも誇りとしていることは安全性の高さである。いまだかって航空死亡事故はゼロとのこと。その代わり、天候、その他のちょっとしたことで出発時刻が遅れたり、欠航になったりすることが頻繁にある。我々のときは、幸いすべて順調であった。それは天候に恵まれたためでもある。名古屋を出発する際に、窓ガラスに微かに雨粒が当たっていたのと、帰りの便で夕刻が迫るころに曇り空となった他は、ほとんど雲もないほどの好天続きだった。
最後に、この旅で印象的であったことのうち、書きもらした2、3の事項に触れる。
ブリスベーンとゴールドコーストで見掛けた海岸近くの住宅地では、1区画ごとにヨットかモーターボートを横付けできるような地形に整備されていた。日本ではすべての海岸線が漁業にかかわる人々の既得権で占められ、海洋レジャーの基地をつくるのも大変である。さらに毎年、空港整備費の何倍もの国家予算が漁港整備に投下されている。受益者の数からいえば、如何に後者が非効率かは明らかであるが、予算枠の硬直化により抜本的な見直しがされることは当分期待できない。
民家の敷地は日本の最近の分譲地ほど狭くはないが、家の大きさと共に概してこぢんまりしていて、大豪邸は見掛けなかった。富豪が住む地域は別にあるのかもしれない。平屋が殆どで2階建はあまり見掛けない。我々より3ヵ月前に豪州を訪れ、ほとんど同じ コースを廻ったNさんは、「住宅地の中を歩いて空が広々していると感じた」と印象を語っている。
ホテルで電気ポットを使うとき、スイッチを入れると2分と経たぬうちに沸き上がってくる、その速さには誰もが驚いた。240ボルトの威力というのだろう。熱効率の良さから日本でも200ボルト配線と専用器具の使用を勧める動きがあるが余り目立たない。我が家は建築後22年のコンクリート系プレハブ住宅であるが、各部屋に200ボルト配線のコンセントが標準仕様で付けられている。しかし、活用したのは新築当時に設置したヒートポンプつきエアコン1台のみで、それが数年後故障した後は全く使っていない。オーストラリアでの体験から見直したいと思うが、1、2年後には区画整理のために家ごと取壊しの運命である。
これもNさんから聞いた話だが、オーストラリアでは人に好感を与える表情で話すという教育が授業に取り入れられているという。鏡を見ながら、或いは二人が向かい合って表情を如何に魅力的に見せるかという課題と取り組むのである。
小さいときから、そういう訓練を受けているためか、ホテルの廊下などでたまたま行き合ったとき見知らぬ相手にもニコッと微笑み「グッダイ(G'day=Good day)!」と声をかける。土産物屋で些細な買い物をしたときの売り子の応答や表情も素敵である。日本では、「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございます」という挨拶の言葉や、お辞儀の角度が何度とかといった形式的な教育を店で受けてやっているが、まるで無表情でロボットのような応対をしている例が多すぎる。
日本でたまにオーストラリア並みの応対をする女性がいると、客のほうがあらぬ勘違いをし兼ねない。例えば技術5号館の安藤さん。彼女の笑顔は、よその受付ではまず見られぬ程すばらしい。それに錯覚している一人がSさんである。玄関に入っていくとニコッとして迎えてくれる表情が一部品メーカーの人間に対する接し方ではないという。「あの娘は、俺が外山にいたときのことを知っているのかなあ」というが、そんなに古い入社ではない。中には、「俺に気があるのかなあ」とうぬぼれる客がいるかも知れない。
1994年5月25日
あ と が き
以上、取り留めもないことを思いつくまま書き並べた。
仲間とのゴルフや懇親会のあと、その時の様子を参加できなかったメンバーに伝える為のメモ書きをまとめて送るのが恒例の小生であるが、旅行記を書き残すことは念頭になかった。
ところが、白木武夫さん(七和会)が今年の年賀状に"オーストラリア旅行記を期待している"旨、添え書きしてくれたことで触発され、今頃キーボードを叩く気になったのである。彼には、昨年2月にリフレッシュ休暇で上京した際に安藤逸平さんに会ったり、旗智俊彦さんと電話で話したことなどが伝えてあった。その中で、ハワイ行きを取り止め6月に豪州へ行くことを予告しておいたのだった。
火曜日に帰国して、その週の金曜には第7回 サンロク会ゴルフコンペをベルフラワーCCで開催するために休む予定だった。そこで、「旅行ボケしたツラをして2日ばかり出勤してもマトモな仕事は出来まい」と勝手な解釈をして水、木も続けて休むよう予め休暇届を出しておいた。つまり、6日間の旅行のために土日を含め11日の連休を取ったことになる。
6月18日(金)のコンペには19名が参加して森田さんが優勝。彼は次回のコンペ (同所、9/25)でも連続優勝を飾った。ここは11月1日に開場予定の新設コースであり、我々はキャディー(グリーンレディーと呼べと言われている)の教育訓練のモルモット役を勤める代わりに只でプレーさせて頂けるという訳であった。フェアウェイの芝が開場時にハゲハゲでは様にならないということで、1打ごとに携帯のマットの上にールを乗せて打つという変則プレーに調子を狂わせた実力者も多かった。
1994年5月25日 完
<追 記>
ツアー参加者寸評:旅行中ほとんど関わりのなかった方も含めた印象など
山本さん(サービス部)
鳥取西高校から東大に入り、私より3年後にトヨタ入社。息子さんは早大卒のようで、旅行の数日前に結婚式を済ませたばかりとか。夫婦とも小柄で、息子も背が低いが、「お嫁さんは皇太子妃と同じく彼より大きい人だから"人種改良"が期待できるかも」と明るく話しておられた。
鳥取西は松島康夫さんの母校でもある。高校では松島さんが1年先輩に当たる。
彼は、休みの朝、奥さんより早く起きて食事の支度をするという。「やさしい旦那さんだわねぇ〜!」と嫁さん連中が羨望の嘆声をあげると、彼は平然として、「休みの日くらいは、美味しいものが食べたいもんねぇー」と宣(のたま)った。
林さん(購買企画部) <1994年4月にトヨタ自動車九州出向>
非常に人当たりのよい方で話していても、ほのぼのとした暖かみが感じられる。奥さんは、また、非常にチャーミングで服装のセンスも抜群である。ついつい、「どこで、どうやって、この人と知り合ったのですか」と聞きたくなってしまう。そんな話を聞くチャンスがブリスベーンからシドニーへ移動する際に、席が隣り合わせになって訪れた。 彼の母親が電車に乗っていて、たまたま見掛けた娘さんに一目ぼれして、「是非うちの息子とつき合ってみて欲しい」と頼み込んだのが実を結んだのだそうだ。「そういう おかあさんなら、嫁姑のいざこざはないでしょうね」と余計なことまで聞いてしまったら、「一緒に住んだことはないし、もう亡くなりました」ということだった。
私の家が豊田市の京町という梅坪駅から1キロほどのところであることを話すと、「その辺りには、よく行きました」とのこと。オカモトハウジングの岡本康宏さんと同期入社で購買部でも一緒だったそうだ。私は梅坪小学校の父親ソフトボール大会を契機に結成した京町北チームで4、5年前まで岡本さんとチームメイトとしての付き合いをしてきたが、彼がかつてトヨタに在籍したことがあるとは知らなかった。
林さんはJR岡崎駅の近くというから、私のシルクスクリーン版画の師匠である犬塚政己さんの家からも近いと思われる。
酒井さん
彼ら夫妻のことは、本文中にも書いた。酒井さんは、これぞ"えびす顔"と言うのだろう。細い目がいつも人なつっこく微笑んでいる。いつもああいう表情をしていたら、笑いジワが染みついて、出会っただけでこちらまで頬が緩んでくる。私など初対面の人には"気難しい人"という印象を与えるらしいので、心して見習わなければならない。
彼はよその奥さんに、お世辞と感じさせる一歩手前くらいの甘言をさり気なくいう。傍で聞いている奥さんが、ジェラシーの炎を燃やしそうになると間髪を入れず、「でも、やっぱりうちの奥様が一番だね」とのうのうと言ってのける。これをわざとらしくなく言うことは、私がどう逆立ちしても真似られそうもない。
山内さん
この方はトヨタスポーツセンター内の研修所で新任課長研修を一緒に受け、宿泊の部屋も2人同室であった。以来、年賀状で繋がり、それ以外ではほとんど無縁であるが、今回同行して、久しぶりにじっくり話す機会を得た。彼は我々と同期の納所さんに代わって、この年の1月からトヨタ博物館の主査を勤めている。
出身が京都工芸繊維大学であるから、その点でも納所さんの後輩になる。生まれは滋賀県で膳所高校卒。納所さんは小倉だったと思う。
私はHの内職で始めたサンドブラストエッチングのことを話し、カタログ中に出てくるミュシャのポスター画がレストランの装飾間仕切りなどによく使われること、ミュシャの輸入本を東京青山の専門画廊で安く入手したことなどに及んだ。山内さんは、丁度秋にポスター展を開催する計画があり準備中であるという。そこで取り上げるのは、自動車が出てくるポスターで、19世紀末から今世紀初頭ころのものが主となるだろうとのことである。時期的にはミュシャの活躍した時代と一致するが、彼の作品中に自動車が描かれている例があったかどうか定かでなかった。しかし、ミュシャには大いに関心があると彼が言うので帰国後に貸すことを約束した。
帰国して確認したところ、自転車の広告のためのポスターが1枚あったのみで、自動車はまったく見られなかった。
山内さんの奥さんは、小学校の先生をされているとか。気さくな感じで、いつも話題の中心になって場を沸かせ、明るくしているという感じに見掛けた。
笹崎さん
彼のことは前にも書いた。奥さんはか弱そうな方で、歩くにもご不自由の様子が痛々しかった。笹崎さんご自身は、たいへん元気そうで、一見亭主関白風に見えるが、食事の席に就く時、離れるとき、機内で配られるジュースのふたを剥がすときなど、細かく気を遣い世話する立居振る舞いが身に付いていて、Hが「本当に優しいご主人だね」と何度も感心していた。
巌さん
トヨタパーキングネットワークという会社に出向中である。この人とは話したり、席が隣合ったりする機会がなかった。三好町在住。Hが話したところ、奥さんは梅坪公民館に習いもの(源氏物語を読む会?)に通っているとのこと。旅行の直前に足をくじいて、歩くのが大変そうだった。元々は夫婦そろってスポーツ好きで活発な方達のようで、本当に悔しい思いの旅だったことと推察する。
山田さん
現在は第7生技部に在籍であるから、材料技術部から元町に異動した相川SLと同じ職場である。昔は工務部にいたとかで、元町本館の品質保証部非金属材料課にいた頃の私を知っているという。そう言われれば、こういう感じの人がいたように私も思う。
その頃と同じく、小柄で細身である。奥さんも細いが、背は旦那さんより高く見える。山本さんの言っていたようなことが、この夫婦の子供ではどうだったか迄は聞きそびれた。
森さん
注:森さん以下の方のことも書いたはずですが、どういう訳か手元のFDDに入っていません。(1998.10.28)
メ モ を 見 た 方 の コ メ ン ト
また、変なものを書いたな。あれは紀行文ではなく人物批評だよ。せっかく大金をかけて(会社にかけさせて)珍しいところへ行くんだから、もっと風物をしっかり見てこなくちゃ駄目だよ。 3/11 Tさん
(確かに人に関する記載が多すぎ、余りにも率直な感想を書き過ぎたと反省し、以後の方への配布分は若干修正した)
貴重な記録を書いていただきありがとうございました。「"ゆうとりっぷ"を止められないか」と経理からよく言われますが、「絶対に続けなければいけない」と頑張っています。文中に出てくる方で山本さん、古田さんなど知っている人が多い。お二人の表現など確かに彼等らしいなと感じました。 3/23 加藤(人事厚生室SL)
豪州旅行記を読ませていただき、有り難うございました。
旅の内容など、細かくまとめられ、末長く楽しい思い出を作られ、すばらしい事と感銘いたしました。
今年4月に社員クラブの人が、ゆうとりっぷでシンガポールに行きますので旅行記を参考にさせていただくと喜んでおりました。 3/25 伊豆原
「オーストラリア旅行記」誠にありがとうございました。興味深く拝見いたしました。貴兄の深い観察力には、いつもながら驚かされます。
最近、仕事の関係でGOLD COASTに行ってきましたし、またCAIRNSにも行きました。特にCAIRNSは、貴兄のケースと同じでメルボルン、名古屋往復のとき必ず立ち寄ることになり、空港の構造も頭に入っています。だいたい、この地区は当国でもトヨタがもっとも強いところで、田舎(農家、鉱山)にいくとトヨタが50%以上のシェアとなります。とくに今は4〜5年つづいた旱魃の後に大雨があり、今年は大豊作が見込まれていて、これからが楽しみです。
実は、私達も「ゆうとりっぷ」はまだで、先日も人事より案内をいただき「オーストラリアコースもありますよ!!」ということで、「コレハオモシロイ」と思っていたところです。
海外駐在者には(日本の方々でも同じと思います)原則として自分でアレンジしてOK。その時「前年のハワイコースの費用と同じだけ補助」ということで、今年は47万円 (二人で)だそうです。
それにしても、お手紙で拝見した如く、目を傷めている方など、ほんとうに人生はいろいろあるものです。そういう意味では、この歳になってもオーストラリアで忙しく飛び回っているというのは幸せかも知れません。(オーストラリアの長期VISAを申請すると徹底的に健康診断があり、これにパスしないとだめ・・・・多くの人がひかかっています)
また、「飛び回る」といっても大変で、先日行ってきたDARWIN支店は空路6.5時間。CAINSは5時間。ここはまだジェット機なのでOKですが、少し田舎にいけば小型 プロペラ機。こうなると大変な時間で、来週はじめの復活祭休暇を利用して訪れるCOWRAの販売店など、SYDNEYの西300キロくらいですが、飛行機は1日1本、それもプロペラですからMELBOURNEfSYDNEYfCOWRAで半日仕事です。
3/30 中川
先週はオーストラリア見聞録をありがとうございました。
私も仕事では度々海外へ出張しますが、観光では3年前グアムへ行った経験のみです。現状の業況では、当分観光旅行は無理とあきらめています。4/18 榎本
先週、Air Mailにて貴兄の豪州旅行記と東京だより受け取りました。出張に出ていたため、まだ拾い読み程度しか目を通しておりませんが、ワープロA4版のかなりの分量ですので、これからゆっくり読ませて頂きます。
旅行のときだけでなく、準備段階から始まっていますので、いささかびっくりしたり、感心したりしているところです。
我々の歳になりますと書くのがおっくうになるものですが、さすが河合さんは違うなとこれまた感心しています。 4/21 黒沢
過日は「オーストラリア紀行」をお送り頂きまして有り難うございました。
さすがと思わせる細やかな観察眼とともに、技術屋には稀な筆力と感服した次第です。 また、私もトヨタに残っていれば愚妻とオーストラリアに行けたのだなと感慨深く読ませて頂いた次第です。
実は、先月中旬から東南アジアのデーラと顧客訪問をしておりまして、お礼の葉書をと思いながら、本日まで延びてしまいました失礼をお詫びいたします。
海外出張は機械の性質から欧米先進国が中心で、ここ5年ほど東南アジアは訪問して おりませんでした。今回、台湾と香港が中心の訪問でしたが、この地域の変貌の早さは予想以上のものでした。それは都市景観、街を走る車の数や質は勿論ですが、それ以上に経済人を中心とした人々の考え方の変わり方に驚かされました。
5/8 桑原
(以下、40行にわたる市場分析レポート。小生には"猫に小判"で活かし切れないが、東南アジア市場への販路拡大を目論む企業の経営者には"垂涎モノ"の報告である)
*
いつもいろいろご連絡ありがとうございます。国内でも海外にいますと、貴兄のお便り が大変楽しみになっています。先回の旅行のお話も自分たちの実感と合わせ、楽しく読ませていただきました。 (注)*海外:九州のこと 家族で豪州駐在経験あり
当社に出向されました林さんに関連の内容を話しましたところ、照れながらも嬉しそうでした。 5/11 加藤
(本文よりもサンロク会メンバーへ配布したコピー挨拶文の"「激務中の職場にふざけ
た書類を送り届けるな!」と、またまたお叱りを受けそうですが、・・・・」という表現が印象的だった様子で) 面白いことを書きますねぇ!そんなことを言う人がいるんですか。仕事が忙しくて読んでおれないというのなら、家へ持ち帰って読めば良いのだし……。私は業務時間中に読みましたよ。私はこういうものは書きませんが、もうすぐ写真ができてくるので、見てもらいますよ。それと私もビデオを買って持って行ったのだけど、いいところへ行く前にバスの中から撮っていたら、突然動かなくなってしまった。バッテリーが1時間持つと聞いていたので、それだけあれば十分だと思って充電器も予備のバッテリーもなしで行きました。あの1時間というのは、連続して撮る場合のことで、途切れ途切れに撮ると30分と動かないのだそうですね。そういうことを知らなかったのですよ。
シドニーでナイトショーを見に行き、カブリツキで見ていたら、舞台に上がって一緒に踊れと誘われましてね。踊っているところを女房が撮ったんですわ。帰ってから娘達に笑われてしまいました。それとカメラの方は殆ど女房まかせでしたが、2人で写っている写真が何枚かあったので、これにも驚いたみたい。「いつも喧嘩ばかりやっているのに、一緒に並んで写すことがあるんだね」と言われました。
5/27 近藤
注: 近藤社長は、5月の連休を利用して自費旅行。シドニーに腰を据えて4日間を過ごされた。こういうのがまともな旅の仕方だろう。「日本人の海外ツアーは既に知っている地名や事物を確認しに行くだけで、じっくり鑑賞したり土地の良さを肌で感じ取ったりして来ようという意識がない。訪問先の人々から見たら、何しに来ているのか誠に理解に苦しむ行動である」と塩見和子さんが"女ひとり世界の歩き方"という著書の中で書いている。
浜田さん
笹崎顕二さんって、千足町の人でしょう。うちの近く、2、3軒離れているだけなの。
あの奥さんが旅行に行かれたのですか。頭の手術をされたのですよ。5,6 年前から何度も。
頭に腫瘍ができたということで切ったり、水が溜まったりするということで管を埋め込んだり、何度も手術を受けておられます。子供がうちと同じ歳だし、以前はよく話したりしましたが、うちの主人がなくなって私が働きに出るようになっているので、去年旅行に行かれたことを全然知りませんでした。笹崎さんのご主人はいい方で、うちの葬儀のときにも随分お世話になりました。奥さんは名古屋から来ておられて、とても奇麗な方でした。あの手術の後遺症で、神経がマヒしたりして瞬きも出来ないようですよ。
「ゆうとりっぷ豪州 紀行メモ」返信集
Date: Thu, 29 Oct 1998 13:35:29 +0900
From: 近藤
オーストラリア旅行懐かしく拝読させていただきました。森氏は小生と同期入社です。又林氏は現在弊社の総務部長としてがんばっています。世間は狭いと思います。
小生もオーストラリアには三度程サイトシーイングしました。文章で表現されているところも訪れましたので、拝読していて映像が浮かんできます。グレートバリアーリーフは今年家族で行きました。珊瑚礁のすばらしいところで潜水艦での見学はまるで竜宮城のようで一見の価値があります。
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Date: 29 Oct 98 14:24:00 +0900
Subject: Re:AUSTRALLIA
こんにちは宮脇です。
AUSTRALLIA は私の是非行きたい所なので シーフードレストランなど大変参考になりました。
当学園でも昨年より、3年生全員が研修を兼ねた修学旅行で AUSTRALLIA へホームステイに出かけています。今年(9月)に 行った生徒のレポートからも大いに魅力を感じました。
ゆーとりっぷはバリ島への家族旅行(1993年)に使ったので、 AUSTRALLIA はデラックスというわけにはいきません。
今後もよろしくお願いします。
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Date: Thu, 29 Oct 1998 10:31:17 +0900
From: "T.Sakai"
オーストラリアへのユートリップの紀行文一気に読ませて戴きました。
一年近く後になってから記述されたにしては大変詳しく生き生きとした登場人物の描写で相変わらずの河合さんの筆力に感心した次第です。
そもそも河合さんの描写力が素晴らしいのは何故だろうかと考えますと、先入観なく客観的に相手・対象物に接し、ありのままに受け入れる心の寛容さではないかと思います。
どうしても私など自分流の独善的な視野からものを見てしまい、大切なものやまた相手の良い面を見逃してしまうのですが、河合さんにはそれがないのが素晴らしい文を書ける秘訣ではなかろうかと思う次第です。
さて登場人物の幾人かは私も比較的良く知っている方ですので、人物評は的を得たものと感じました。
私と同じ苗字の貫之氏は今テクノクラフトの役員になっておられます。河合さんの描写が目に浮かぶようなまさにそういう人柄の人と私も思います。大勢の集まる場に出ると、必ず真っ先に手を挙げて発言することに生きがいを感じているようです。
また森氏は刈谷にできた知的財産推進のなんという名が正式名だったか忘れましたが、公的な財団の事務局長のような立場で活躍されておられます。奥さんは元製品企画室に勤務されていた方で、当時美貌でならした方です。ではまた。 |
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初めての九州 1960年春
〜 工場見学のついでに巡り歩いた貧乏旅行記(1) 〜 |
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まえがき
大学卒業前年の春休み中に、応用化学科の指導教官 木村教授引率による工場見学会が行われた。場所は中国地方と北九州地区で、訪問先は当然化学関係の会社である。4日間の見学が終わると現地で解散になった。
これは毎年恒例となっており、見学日程の終わったあと4月の始業までにまだ日数もある。学生たちが九州旅行を続行するのは、これまた恒例のことであった。
私は3年の夏に四国を経由して夜半に八幡浜から別府に渡るというコースで九州旅行を試みたが、台風来襲のため宇和島で足止めに遭い、翌朝の便も出航せず、次の便の出る夜まで待つことに嫌気がさして、旅を切り上げ帰宅した。それで九州行きは今回が初めてだった。
旅行費用の中で宿代の占める比率は高い。それを節約する秘法を先輩筋から聞いていたので、実行する手筈を事前に整えておいた。これは学生が帰省する長期の休暇中だけに 使える方法である。各地の大学の教務課に学生寮の宿泊願いを往復葉書で出すのである。私は、同行予定の安藤逸平君にも勧めて、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、宮崎、大分各大学に打診してあった。そのうち大分からは「宿泊施設がありません」という断りがきたが、他はOKだった。ただ、鹿児島大学は「学生部長の紹介状を持参するように」という注文がついていた。
以下、日記風に旅程を記す。なにぶん古いことで、記憶が定かでない部分も多い。例えば、日数であるが、今まで確か、九州均一周遊券の有効期間18日間をフルに使って帰宅したと思い込んでいたのに、今振り返ってみると16日か17日にしかならない。 しかし、「そんなことはどうでも良い」と開き直って一気に書き上げてしまおう。
3月22日
今日は、工学部の○番教室で応用科学科の卒論研究発表会があった。1年先輩の4年生にとっては卒業させてもらえるかどうかという審査会の場である。我々も傍聴できると聞いて、来年のために出席した。
審査員は7つの講座の先生方で、発表者を直接指導した先生だけは原則として口を挟めないことになっている。
私は数人の発表と質疑を聞いたが、どれもチンプンカンプンでさっぱり理解できなかった。一番厳しい質問をして、安易に打ち切らないのが有機化学の石井教授だった。この人に徹底的に攻められて、卒業が遅れた人もいると誰かに聞いたことがある。今年もそんな人が出るのではないかと他人事ながら心配になるような例も見られた。
私は長時間いていても無駄と悟って、早々に退場し名古屋駅に向かった。
朝、一時預りに預けておいた旅行バッグは特大で、今回のために買ったものだった。衣服は夏を除いた3シーズン着続けている一張羅の学生服で済むから身軽なものであるが、何日間になるか見当もつかない長旅のための下着が入るだけ詰め込んである。上の姉の主人大橋英昭さんからセミ版の蛇腹式カメラを、2番目の姉の主人平野武雄さんからは双眼鏡を借用し、ついでに旅行費用のカンパまでさせて頂いてあった。その他にも私らしい持ち物があるが、いずれその出番があれば書くことになろう。
私は先ず京都で下車して2軒ある親戚のうち、四条河原町近くの頂源院に立ち寄った。「今晩から工場見学で広島から九州方面へ行きます。23時発の列車に乗りますので、少し寄らせて頂きました」と告げると、義叔母の了さんは、「そんなに遅くの汽車に乗らんかってええやないの。明日の朝なら幾ら早くたって起こしてあげるで〜」と言ってくれた。「それに乗らないと、現地集合に間に合わないのです」、「そうでっか〜しゃあないな〜。そな、帰りにゆっくりお寄りやぁ〜」・・・・
私が予定した列車に今回参加の級友30名余りのうち半数以上が乗った。ここが始発ということで誰が見ても一番相応しい選択といえる。
3月23日
早朝に岩国駅で降りた。集合は隣の大竹駅前であるがまだ早い。バスで錦帯橋まで往復して時間調整。
木村教授は名古屋からの直行で来られた。風邪で体調はよくないご様子。
第1の見学先は三菱製紙だった。巨大な原木が水路で運ばれ切断され、更に細かく裁断されていく工程はダイナミックだった。途中工程では苛性ソーダに溶かされドロドロした液体に姿を変え、最終工程ではロール状の紙となって出てくる。化学はまさに現代の一大マジックである。
案内は2年ほど先輩の技術員だった。やがて昼食となった。これが何と一食18円とかの工場食だった。おかずは豆腐に何かが少し添えてあるだけ。ご飯は麦飯である。食費の半分は会社側の負担とはいえ、学食で我々が使っているより安く、その安さ以上に内容の粗末さに哀れみを感じてしまった。そして「これでも慣れると結構食べられますよ」と いう先輩の言葉に涙が出る思いがした。
午後は直ぐ隣町徳山市の徳山ソーダへ行った。この工場の主力製品はセメントで、製造にロータリーキルンを使ったことで先駆的な工場であるとのこと。装置の中は灼熱の炎の海。級友の顔が火照っていたのは、炉壁からの輻射熱のためだけでない。迫力ある光景を目の辺りにして、少なからず興奮している顔つきだった。
下松(くだまつ)駅前の旅館に投宿。
3月24日
日本石油精製 下松製油所を見学。蒸留搭とパイプラインのみで、製品といえば見栄えもしない唯の液体。「これでは何も分からない」と案内役の先輩に愚痴を言ったら、「だから、こうしてお見せできるのですよ。同業者が来たら、蒸留塔の側にも近づけませんよ。皆さんが気づかないところにもいろいろ企業秘密がありますので・・・・」と言って笑っていた。
この会社では見学者に食事の提供など一切しないと事前に念押しされていたらしい。木村教授は、これまでの電話とか、朝一番の挨拶の中で、「他所の会社では工場食の場合もあるけれど、学生たちに食事が出されるケースが多いですよ」というような話をして おられた。「しかし、どうもこの会社だけは無視されそうだな」ということだった。
ところが昼になると、昨日とは比べものにならないくらい立派な部屋で、それに似つかわしいレベルの食事が準備されていた。係の者が部屋を出ていくと、木村さんは 言葉にこそ出されなかったが「俺の折衝能力はこんなものさ」といわんばかりの目配せをして、我々の拍手喝采を受けられた。
九州入りをして八幡市内の黒埼駅前の旅館に泊まることになった。
私は九州の地を生まれて初めて踏みしめているのだという実感を味わうために、そして旅行中の体力低下を防止しようという意図もあって、バッグの中から縄跳びのロープを持ち出して玄関先で2重跳びをした。旅館の子供二人が真似て縄跳びを始めた。
3月25日
黒埼窯業を見た。石炭を扱う工場はどこもそうだが、汚いことで参る。きちんと整理 整頓がされていても、この不潔感はどうしようもない。カーボンブラックが売り物の会社だが、私はいくら給料が良くてもこういう会社への就職はご免蒙る。
つぎに訪れたのは八幡製鉄の正門前。我々が見学を許されているのは八幡化学という 会社だが、できれば親会社である八幡製鉄の方を見せてもらいたいと、木村さんが今日も掛け合ってくれたが、とにかく希望者が多くて、とても応じられないとのこと。確かに門前には、先客の学生が長蛇の列をなしていた。
海を埋め立てて造った広い工場用地の中で、建物が建っているのは極一部にすぎない。そこをバスに乗ったまま廻ったが、案内の人も道順を間違えるほどの工場だった。
ここでもロータリーキルンがあり、徳山のそれより一段と大型の新鋭機であったが、最早、初めて見たときのあの感激はない。
大牟田へ移動して宿泊。
3月26日
午前中に電気化学工業という、軍配マークで知られる肥料の会社と東洋高圧化学の2社を見学した。もう一つ、三池合成という染料メーカーも午後に予定されていたが、争議中ということで取りやめとなった。
私は予定変更に合わせた旅行計画の練り直しのために、東洋高圧の見学中から内職を始めてしまったので、ここが何の工場だったかの記憶すらない。
大牟田駅で昼前に解散となった。木村さんと岩井禧典君、その他若干名がすぐ名古屋に帰られたが、その他の大多数は熊本方面へ向かった。私は最初の予定通り鳥栖から佐賀へ行くことにして安藤君を伴った。
この旅行で驚いたことの一つが岩井君の出で立ちである。彼は大学入学以来3年間、高校生のときと同じ姿、恰好を押し通してきた。髪はイガグリ頭、靴はズック、冬でも コートを着たことがない。猿投町大字平戸橋の自宅からから名鉄三河線の電車で知立経由通学している。その彼がこの旅行では、突然スプリングコートを着て、皮靴を履いて現れた。髪も伸ばし始めるようだ。
冬にコートを着る私は、この旅行でコートを着ることを考えてもみなかった。春用の 薄手のコートを持っていないためでもあるが、南国九州へ行くのにコートが必要という 感覚はない。実際、風邪引き中の木村さん以外では2,3人しか着ていない。その一人が岩井君とは・・・・
注:彼は卒業後、東和合成に入社した。何年か経ってから名鉄のホームで彼を見掛けた ことがある。その時の履物が、あの懐かしいズックだった。
結婚は遅かったらしい。9年前、焼津で卒業25年目のクラス会をしたとき3才の長男がいて、その年の秋に2番目の子が生まれる予定ということだった。因に、私は29才で結婚し、娘が18才と15才だった。
佐賀に着いたのは15時頃だった。駅の直前まで田畑という感じで、県庁所在地というイメージはない。ここの大学に宿泊をお願いしてあったが、泊まってみてもどうしようもない感じ。初めの予定では、長崎に行く目的で、この日のうちに少しでも近くへ行っておきたいということで選んだ土地。
事情が変わったので、再度計画変更。大学に宿泊のキャンセルをお願いして、長崎行きに乗り込んだ。
終着長崎駅から大学に電話した。「明日、2名で泊めて頂くことになっていますが、1日早く来てしまいました。今晩、泊めて頂けませんか」。ところが、「今日は土曜ですから、お泊まりの方が多いのですよ。誠にお気の毒ですが、お泊めできません」という 返事だった。閉まりかけている観光案内所に飛び込み、事情を話すといくつかの旅館に 電話してくれた。どこも空きはないという返事だったが、「もう一つだけ」といって掛けた先で、「女中部屋でもよければ・・・・」という返事が得られた。
女中さんの膝枕で寝られるかと期待したわけでもないが、何となく胸騒ぎがする思いでいろは旅館の玄関に入った。通された部屋は、とくに変わった部屋でも、狭い部屋でも なかった。ただ、高知から来ている高校の先生と相部屋で、本人には了解を得てあるとのこと。足の不自由な方で、松葉杖の手入れをしておられた。
3月27日
我々が目覚めた時には、先生はチェックアウトされたあとだった。宿の娘さん2人が 交互に来たり、2人揃って側に座りご飯をよそってくれたりする。それが気恥しいし、別の事情からで迷惑でさえある。「君たち、忙しいだろう。俺たち勝手につけて食べる から向こうで休んでいていいよ」と追い払おうとするのだが、「いいン です。もうお客 さんは他にいませんから」と言って動こうとしない。仕方がないので、質問攻めにした。「茂木ってどこ?」、「ここから遠いの?」、「枇杷が名産って書いてあったけど他所 のと何か違いがあるの?」、・・・・分からないことがあると帳場まで走っていって聞いて きてくれる。そして語尾に「・・・・もン ね」をつけたかわいい表現で必死に受け答えして くれるのだった。
我々は、昼飯も食べられないほど一杯の腹ごしらえをしておきたかったのだが、可愛い娘さんを前にしては、さすがに憚られた。
注:他のグループでは、「僕は美人がそばにいると胸が一杯になって食べられないのだよ。だからちょっと席を外してもらえないかなぁ」といって追い払い、昼食用のおにぎりを作ってしまったという話もある。
午前中の2時間ばかりで主な観光名所を廻るバスに乗った。眼鏡橋、平和祈念像、浦上天主堂、グラバー邸、など。
そしてこの日のうちに熊本までたどり着くことを念頭に、雲仙岳、島原、(海路)三角を経由して20時に目的地に到達した。雲仙では逆廻りで来た大矢光雄君、大場幸満君他に出会った。「俺たちは霧氷を見たぞ。君たちは、今頃来ていては見られないだろうな」と言われた。
熊本駅から工学部の工友寮に電話すると、予約より1日早いこんな時間でも親切に市電の乗り継ぎ方法などを教えて優しく迎えてくれた。熊本の市電は一枚の切符で、乗り継ぎができることが珍しかった。
長い廊下の先の教室そのものという部屋だった。この寮には風呂がなく、銭湯へ行った。途中の八百屋で見掛けた果物が夏みかんに似ているが、少し違うようにも見えた。これは八朔(はっさく)というと教えられ買ってみた。とても美味しかった。
私は部屋の隅に縄跳びのロープを張って靴下を干した。安藤君は「かねてから変わった奴だと思っていたが、こんなことまで考えて旅行に小物を持ち歩いているとしたら大したもんだ」と変な褒め方をして、自分の下着も吊した。
3月28日
珍しく目覚めがよく、早朝の庭先に出てみた。すぐ前を流れる白川の水面には川霧が立ちこめ幻想的な光景だった。
あとから部屋を出る安藤君がロープを外してくれると思ったら、自分の下着だけ取って置いてきてしまった。
市内観光は考えもせず、鹿児島行きの鈍行列車に乗った。熊本から丁度中間くらいの町水俣という地名はこの頃新聞でよく見掛ける。ここの魚を食べた猫が狂い死にしたとか、奇形の子猫を生んだとか。それに人間にもいろいろ奇妙な障害をもたらし始めているのがここの海で獲れる魚であり、もう一つ溯った原因は化学会社の工場廃液のようだ。
注:このあと水俣病として顕在化し、35年掛かりの公害病被害裁判につながる。
周りの乗客は次々変わっていった。小学生を連れたお姉さん(高校生?)が退屈して ごそごそする弟を叱ったりなだめたりする姿を見て、私はポケットからトランプを取り 出した。「君たち、トランプ手品知ってるかい」。私はシャッフルの手技で注目を集めた上で、得意の手品をつぎつぎ見せてやった。私の直接の相手以上に、1ボックス前の席の中学生が身を乗り出して熱心に見つめていた。二人は上川内の伯母さんのところへ行くといって間もなく下車した。
我々は朝から何も食べてなかった。安藤君は駅弁を食べようと言うが、私は混み合った車中で食べる気がしない。彼にまで止めよと強要した訳でもないのに、「自分勝手なくせに我慢強い奴だ!」と言って思い留まってしまった。そして車内販売の売り子が通る度に恨めしそうに弁当を覗き込んでいた。
昼過ぎに鹿児島に到着。確かに日差しが強く、南国へ来たという印象である。
安藤君が鹿大へ電話して「学生寮に泊めて頂けないでしょうか。春休みに入ってしまい学生部長の紹介状が入手できていませんが・・・・」と伝えると、あっさり了承されたので、厚かましくも2泊頼んでしまった。
教養部時代にD組だった連中が先客で来ていた。その中の一人矢守征三郎君は、風邪がひどく昼間から部屋で唸っていた。
せっかちな私は動きが鈍い安藤君にいらつき、一足先に町へ飛び出していった。天文館通りの百貨店でケミカルシューズを買った。この先は皮靴など履く気がしない。
表に出ると通りの向こう側をウインドーショッピングしながら歩く安藤君の姿が見えた。見知らぬ土地できょろきょろしている彼を撮ってやろうとカメラを構えながら追ったが、春らしくない暑さのため日陰を選びながら歩いているようで、なかなかシャッターを切れなかった。
彼は私の行かなかった城山にも行ったそうだ。そこは公園になっており、西郷隆盛の 銅像がある。桜島を見るのに絶好の場所でもあるようだ。
3月29日
午前中に桜島を見ようと約束していたのに、昼近くまで寝ていてスケジュールが狂ってしまった。指宿線で終点山川まで行く途中、左の窓からは噴煙を上げる桜島が見えた。 高台にある寮からも見えるので昨日から見飽きるほど見ているのだが、今日は煙の量が一段と多いように感じた。
我々はバスで開聞岳口まで行き、そこからは徒歩で池田湖を半周することになった。3月末に菜の花が咲き乱れ、燕が飛びかうのは、やはり南国だからこそ。そんなことを 珍しがって居られたのは、最初の30分位のことで、あとは上着を脱いでも凌げない暑さとの闘いだった。2時間近く歩いたあとで、たまたま通りかかった小型トラックの荷台に乗せてもらい湖畔唯一の休憩所にたどり着いた。ここで今日初めての食事をした。
池田湖は、透明度の高いことで国内3位とかいっているが、湖畔から霞のかかった湖面を透かし見していては水の奇麗さを実感できない。
3月30日
今日こそ桜島に渡ろうという決意がまたまた昨日の繰り返しとなってしまった。
都城、串間、都井岬、鵜戸神宮を経て日南海岸を宮崎に向かった。青島を過ぎる頃は薄暗くなっていた。
都井岬の野性馬も遠くから見た感じでは、放し飼いの馬とどう違うか分からない。
この日に見た光景で一番印象的だったのは、日南海岸一帯の“鬼の洗濯板”と呼ばれる岩である。海岸線に直角より少し傾いた角度で規則正しい断層の端面を見せている。近くに寄って詳しく見たかったが、高い断崖上の道を通るバスの車窓から見ただけ。
宮崎大学は駅からかなり離れた辺鄙な場所にあった。電話すると、今から外部のふとん屋さんに連絡して夜具を持ってきて貰うという。その使用料として80円を払ってほしいということで、繰り返し念を押された。なお、鹿児島は部屋代が1泊50円、熊本はタダだった。一般の旅館に泊まれば安くて350円、普通は550円程度が相場である。我々のアルバイトの日当とほぼ同額といえる。
私が先に風呂に行って戻ると、彼がふとんを敷いてくれていた。右側のふとんの枕許に彼の荷物が置いてあり、こちらで寝るという意思表示である。私は彼が部屋を出ると直ぐに左の床に入ろうとしたら、敷布団にみごとな夢の国の地図が描かれていた。
私は敷布団だけを入れ替えて、何食わぬ顔をして就寝した。
3月31日
宮崎にも見るべきところは多いようだし、青島に行き直したい気持ちもある。しかし、先へ駒を進めたいという気持ちが先行して、早々に北を目指すことにした。彼は相変わらず寝起きが悪い。「もうちょっと」をくり返す彼に愛想を尽かせて、「先に行くぞ!」と言い残して寮を出てきてしまった。
駅で元C組のグループと行き合った。
私は別府で地獄巡りをした。九州観光のどのガイドにも載っているほど有名であり、期待感が高かったが、はっきり言って子供だまし。地獄巡りというからには数がなければいけないと無理に造った意図がありありで、嫌になった。
地獄とは、熱を帯びた泥沼の中からあぶくがブクブク吹き上げてくるというもので、 泥の色が赤味を帯びていると血の池地獄という。これは許せるが何とも名前の付けようがない粘土色の地獄には、側で鰐を放し飼いにして鰐地獄という名前をつけている。鰐が 熱い泥沼を泳いで行かなければ餌にありつけないとでもいうことなら、鰐にとってはこの世の地獄であるから“鰐地獄”といわれても納得できる。ここのは沼の脇にのんびり鰐が寝そべっているだけである。この手で行くなら亀地獄、鶴地獄、豚地獄、・・・・何でもできてしまう。“地獄”というイメージが湧かず、騙されたという感じを受ける一番の 原因は、規模が小さいことだ。あの程度なら数合わせで人工的に造ったものがあるかも 知れない。
別府から日豊本線で40キロ北、普通列車に乗り1時間の距離にある宇佐で下車。ローカル線に乗り換え宇佐八幡駅前の旅館“宇佐屋”に泊まる。隣にもう一軒あるが、こちらの方が安そうに見えたので選んだ。素泊りなら280円。朝食付きで320円と 言われ、40円で2食とは何が出されるか不安もあるが後者とした。
4月1日
朝、トイレで顔を合わせた男性は私より何才か年上のようだが、気さくに挨拶の言葉を掛けてきた。どうも木の引き戸1枚を隔てた隣の部屋に泊まった人らしい。女房かどうか相手を見ていないが、女性と一緒の様子で、夜中に聞き覚えのない声、苦しんでいるのか、喜んでいるのか、どちらにも聞こえる嬌声が聞こえたような気がする。
2階のトイレで用をたすと、階下まで落下して地響きというレベルの衝撃音が返って きた。こんなダイナミックな用便経験は未だかってない。
宇佐八幡は全国の八幡神社の総元締めだそうだ。ここの出身の今永紀子さんからの最初の手紙で教えて貰っていた。境内が広く、柱の朱塗りの色が鮮やかで、神社の中の神社という風格を感じる。
今永さんの実家は、大字高森という地名であったことから近くならどんな所か見て おこうと思った。神社の前の店で尋ねたら、神社の西側の道を1キロほど北へ行った ところとのこと。
田んぼの中で左側は桜並木という道をしばらく行くと初老の男性が来たので聞いてみた。「この辺りで多い苗字は何ですか」、「ツル(鶴、都留、水流?)だな」、「今永という苗字はどうですか」、「それもあるな。あの辺に多い」(と左前方の村落を指さした)。
その近くへ行くと米の袋を積んだリヤカーを引いた中年女性が通りかかった。「この 辺りに九州大学の看護学校へ行っている今永さんの家がありますか」、「ああ、紀ちゃんね〜。(右奥4軒目の家を指して)あの赤い屋根の家だよ。この前、おばあさんが亡く なって帰っておいでだったけど、いまは博多の方じゃろう」。
私は旅先で知人に会うと昨年夏の四国でのように迷惑を掛けることになるのではないかと恐れて、一目散に走って宇佐八幡に戻り、宇佐へ向かった。
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初めての九州 1960年春
〜 工場見学のついでに巡り歩いた貧乏旅行記(2) 〜 |
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注:あの女性は精米所が休みだったということで、直ぐ引き返してきて今永さんの家に寄ったらしい。「あれ!紀ちゃん、まだ居たの〜!いまそこで背の高い男前の人が紀ちゃんを訪ねて来ていたよ。私が博多じゃろうというたン で、戻って行きなさった」、「高校のときの誰かかしら。ちょっと自転車で追いかけてみて!」と弟に頼み、彼はすぐに従ったというがそれらしい人は見当たらなかったとのこと。
宇佐駅で汽車を待ちながら、九州以外の知人の何人かに超短文のはがきを書いた。
「私は今USAに来ています」。
“ひかり”は博多から別府、熊本を経由して博多に戻る循環線の準急だ。逆周りもある。右周りのひかりに乗って坊中(現在は阿蘇と改称)へ行こうとする私は、長い列の後ろで座席にありつけそうもない。大した距離ではないし立って行くのも仕方ないと思っていたら、安藤君がそんな私を見つけて窓から身を乗り出して呼んでくれた。
彼は昨夜遅くまで宮崎に留まり、夜行で中津まで行き、耶馬渓の一部を見て阿蘇方面へ向かうところだった。
注:後日、彼は宮崎で私と別れたあとの様子を日記風に書いたメモをくれた。
小雨の降る中を青島へ出掛けたらしく、日が照りながら雨が降るという空模様を“青島では狐が嫁入りしていた”と表現していた。
夕方、乗ったバスの車掌さんがとても魅力的な女性だったので、「いま、すてきな映画をやっている劇場はありませんか。どこで降りたらいいですか」と尋ねてみたとか。それが“慕情”だったか、とてもロマンティックな気分で見終わり、バスに乗ったら、偶然同じ車掌さんだった。日記の最後を「さよなら宮崎の街!さよなら宮崎のヒト!」と結んでいる。
4月2日
昨夜は、「今度こそ8時には起きる」という彼だったが、「どうにも疲れがひどくて起きられない」と情けない声。こんな彼を放っておいて大丈夫だろうかと心配しない訳 ではないが、私には自分なりの心積もりを果たしたいという意思があって、おめおめつき合っては居れない。
旅館の支払いについては、「君にこの前から借りがあるから一緒に払っておくよ」ということだった。これが結果的に悲劇の元となるのだから、世の中、いつ何事が起きるか分からないものである。
バスで標高1592メートルの山頂近く登ると、そこは冬だった。昨日は雪まで降ったということで岩陰には真新しい雪が積もっていた。3人の登山者が重装備でゆっくり登る脇を私は駆け足ですり抜けて火口を覗き込める位置まで行った。火口は小さいながら噴煙を上げており、時折赤い火のような溶岩を見せていた。火山活動が活発になれば登山は 禁止になる。突然、溶岩彈を噴き上げたような場合に備えてコンクリート製の避難所も あちこちに造られているが、溶岩の海に取り囲まれてしまったらヘリコプターを使っても救出できるかどうか分からない。
宿に預けてあったカバンを引き取り、彼がまだ残っていないかと確認したが、もう出たあとだった。
熊本駅の手前の水前寺公園前で下車した。ここの日本庭園は東海道五十三次の景色を 模して造ってあるという。桜が満開で花の下で宴会をする団体の人々があちこちに居た。池の鯉も大きさと数で伝統を感じさせる。
ここを出て、昼食をとってからおもむろに公園横の郵便局へ行った。ところが表には、シャッターが降りていた。旅行していると曜日の感覚がなくなってしまう。今日は土曜日だった。それに気づくのが、もう30分早かったら、公園に入る前に郵便局へ行っていたら、・・・・何と悔やんでも今は仕方のないこと。
実は手持ちの現金が底をついており、郵便局で引き出さないと旅が続けられない状況になっていた。全部現金にしても大した金ではないが、持ち慣れないものを身に付けているより、現在高確認印を貯金局で押してもらった通帳を持っていった方が随時必要なだけ出せて都合がよいと思って、そういう通帳を準備していた。
さら
私はカバンの底まで浚えて有り金すべてを集めてみた。200円足らずだった。
安藤君と別れた今、月曜まで宿と食事をつなぐ手立てがない。彼が居たとしても、それができるかどうかは怪しい。
彼が宿代を払ってくれてなければ、熊本行きの汽車に乗る前に郵便局に寄っただろう。これも空しいタラ、レバ後悔である。
私は均一周遊券を持っている。これさえあれば九州の中の急行以下の列車と国鉄バスに何度でも乗ることができる。私の性格では、駅のベンチで身動きもせずに月曜まで待つよりは、昼夜を分かたず乗り物に乗りまくっている方がよい。
私は14時ころの汽車で門司へ行き、門司港へ行って日豊本線21時発の急行に乗って南下した。
4月3日
朝6時に目覚めると汽車は宮崎駅に到着するところだった。ひとまず下車して、次に来る汽車がどこ行きであっても乗ることにした。それが杉安行きのディーゼルカーだった。(今はバスになっている)
途中の妻という駅から国鉄バスが出ることを時刻表で見て、それに乗り継ぐことにした。バスは杉安も通って湯前まで、山中の険しい道を4時間掛かりで走り続けた。途中、時間調整で10分ほどの休憩があったとき、バス停前のよろず屋でアンパンを2個買った。これがこの日唯一の出費だった。
湯前からは八代を経て熊本まで行くディーゼルカーが連絡している。車窓右側の遥か下に球磨川が長時間にわたって見えた。この川が季節によっては急流となり、球磨川下りという観光資源となるらしいが、今は水量が少なくそんな川には見えない。
熊本到着は、傷心してここへ来た昨日とまったく同じ時刻だった。前日と同じ汽車で門司へ行き、門司港まで普通列車で行って、これまた21時に発車する列車に乗り込んだ。今度は鹿児島本線である。どちらも急行であるが、日豊本線の列車よりこちらの方が平均速度が速い。
4月4日
朝6時頃に鹿児島に到着した。桜島への渡し船は村営となっていて30円。これ位なら支払い能力がある。船に乗る前に八朔に似た果物を3個80円で売っていて、その色つやが余りにも美味そうに見えたので、全財産をはたくような心境で買い求めた。これがタダの夏みかんと分かったときの落胆は、思い出すのも忌ま忌ましい。
桜島の中は国鉄バスの路線が張り巡らされている。これも来た順に行き先も確認しないで乗ったが、少し行くとすぐ終着となったり、この日の行動上具合の悪い方向へ行きそうになって乗り換えを余儀なくされた。3度目に乗ったバスの車中で9時になった。私は 迷わず下車し郵便局に飛び込んで預金を降ろした。下境という町だったか。
注:旅行中払い戻しを受けるのは2度目で、3月29日にも池田湖から指宿線に戻った所の薩摩今和泉で3千円ばかりを引き出している。
ところで、桜島口からしばらくは溶岩の間に切り開いた観光道路をバスが走る。道路名も“溶岩道路”と名づけられている。私が想像していた溶岩は、ドロドロに溶けたマグマが水飴のように火口から流れ出して単純な板状に固まったもので、カルメラのように内部は空隙の多い多孔質であっても表面は一皮被り、つるっとした感じのものだった。これが実際は大違いだった。どうしてあんなに巨大な塊をランダムに積み重ねたようになるのだろうか。それが噴火の時期によって、堅いコークス状であったり、粘土の塊のように見え指に挟んだだけで脆く崩れてしまうものであったり・・とバリエーションが多彩である。
この溶岩をぜひ写真に撮りたいのだが、手持ちのフィルムを使い果たしていて叶わなかった。
注:数ヵ月後に、九州に住む知人の一人に手紙を書いて、「実は、先日そちらを旅行 したのだが、桜島で溶岩を写すフィルムが無くて残念だった」と伝えると、溶岩 がばっちり写った写真を送ってくれた。それは、その人の級友で鹿児島出身の人 から頂いたものだった。
国分から霧島国立公園の入口、林田温泉へ行った。しかし、小雨が降っていて視界が悪いので、それから先に進むことは諦め宮崎へ行った。市内の広い道路、ゆったり流れる大淀川などがあって感じのよい都市である。大淀川の岸辺に見られたボートを思う存分 漕いでみたいという気持ちも強いが、いつも雨に妨げられている。
夕刻以後の私の行動は、この前置き去りにされた安藤君とまるで同じパターンとなった。つまり、夜遅くまで映画を見て夜行で北上することになったのである。
4月5日
小倉で下車して九州を出る方向の列車を待った。間もなく来た急行に乗り込み、2,3の車両を通り抜けたが、かなりの混みようでバッグを載せる網棚さえ空きがない。
もう1両と思って移った車両は意外なほどすっきりしていた。車内は女高生ばかりという感じだったが、入口近くに一つ空席があり、その前にうるさそうなオバちゃんが居た。「ここ空いて居ますか」と尋ねると、じろ〜っと私の頭の天辺から足もとまで見てから、「どうぞ!」と言ってくれた。
あとでオバちゃん(先生)が言った。「これは私たちの学校の専用車です。ここだけ 空いていましたし、大丈夫そうにお見受けしましたので座って頂きました」。それは大阪の大手前高校の修学旅行生のための専用車だったのである。
小郡(おごおり)で下車して秋吉台の秋芳洞を見た。鍾乳洞を見るのは初めてだった。絵はがきで 見ると、美しい大理石か金色の柱のように仕上げてある。実物は薄汚いものだった。あの石筍が1センチ伸びるのに何100年も掛るというから、とくに観光客の出入りの多い この洞窟の中で奇麗なままではあり得ないと考え納得した。その上のカルスト台地共々 国定公園切手の図柄になっていて馴染み深い。
広島まで出て、ここ始発の急行に乗ることにした。たまたま私の側に居た女の方が ホーム到着時間を駅員に聞いたのを耳にして、私の予想より早くから車内に乗り込める ことが分かった。
注 このときのことが分かっていたら、夏に東北本線の急行で苦労しそうになる愚は 避けられた筈だが。
4月6日
早朝京都に到着し、頂源院に行った。まだ、門が開いてなかったので物陰にカバンを置いて、近くの銭湯に行き旅の垢を落とした。
この日は、叔父石川純蔵さんのところにも寄り、夕飯はそこでご馳走になった。泊まりは寺に戻ってした。
4月7日
従兄弟の隆純さんがなかなか出勤しないので、「どうしたのか」、「こんなに出勤時間は遅いのか」と尋ねると、「今日は仕事(市役所水道局勤務)を休んだ」という。それが私のためで、今まで京都を案内したことがないから、お勧めの場所に案内してやろうと いうことだった。それにもう一つの理由があった。
この前の日曜に役所の人たちと嵐山へ行ったとき猿をからかっていたらメガネを取られ壊されてしまった。替わりの眼鏡がまだできて来ないので、出勤しても仕事ができないということだ。
そして彼が案内してくれた最初の所が嵐山の猿が出る場所だった。私は何か嫌な予感がした。「猿を見つめないで下さい。飛びかかって来ることがあります」という注意書きがあるが、近寄ってきたら怖くてどうしてもじっと見つめてしまいがちである。
少し、私自身が慣れたところで写真を撮りに土手を登ったら、草で滑ってカメラを地面に叩き付けてしまった。蛇腹がつぶれ、金属のフレームも少し歪んだ。「借り物のカメラを壊してしまった!」と思い、顔から血の気が引いていくのが分かった。
しかしよくよく見れば、大した傷み方ではなく、手先の器用な私は何一つ材料・部品を使う事なく、黙って返せるレベルまでに修理できた。
そのあとは次々お寺巡りとなった。
まず清涼殿。今回見た中では境内が一番広い。つぎに落柿舎、小さな庵という感じ。 私が一番気に入ったのは悲恋の人、滝口入道で知られる滝口寺。シブ茶を出してくれるが口上が洒落ている。「恋の水です。どうぞ冷めないうちにお召し上がり下さい」。
私ははっきり言ってお寺巡りなど余り好きでないし柄にも合わないと心得ているが、嵯峨野一帯は連れ次第でなかなか素敵な散策コースになるということを実感した。
らいぞう
隆純さんは10歳年上で、私の兄 磊三と同い年である。小学生の頃に父親を亡くし、その前に母親も亡くなっていた。後妻(了さん)に7歳下の弟が生まれ、その4年後に妹が生まれ、更に3年後次女が腹にあるときに父が亡くなったのである。
了さんが収入を得ていた気配はなく、隆純さんが11,2歳から一家の柱となって家計を支えてきたものと思われる。それができる坊さんとは、結構な職業である。
彼は夏休みになると、その殆どを父の郷里である七宝村大字遠島の我が家へ身を寄せていた。戦後の4,5年もそれは続いた。時には弟も一緒に来たし、妹2人を伴ってきた こともあった。それは食料難のためで彼より3歳年上の私の姉は「また食い出しに来た」と陰口していた。母は「そんなことを言うもン でにャあわ」とたしなめ、京都へ帰って 行くときは持てるだけの米と卵を渡していた。
その隆純さんも31歳になっている。まだ独身だが、今年中にはお嫁さんを迎えられ そうだ。
同年生まれの私の兄は、20歳になるのを待ち構えたように、戦争未亡人で10歳以上も年上の女性と駆け落ち結婚をしてしまった。今は9歳を頭に3人の娘が居る。
旧制中学(3中:現在の津島高校)在学中に入隊を志願して兵役につき、兵庫県加古川、豊橋などの駐屯地を経て、敗戦時には大陸にいた。幸い3ヵ月後には帰国できて、暫くの間、家業の七宝焼を手伝っていたが、疎開中の弟夫婦と同居の女性が辛い日々を送って いることに同情して、上記のようなことになってしまった。
兄は幼少の頃からませた男で、小学校に上がる前に隣の年上の子供を自転車に載せて12キロ離れた名古屋の伯母の家へ遊びに行ってしまった。勿論、親に内緒で・・というような行状が数知れない。
親は「あの女に騙されている」ということで、何度も、時には彼が敬愛する恩師にまで頼んで家に戻るよう説得したが、「もう一人前の大人だ」という意識に凝り固まっている彼の心を変えることはできなかった。それが私の小学校3年の時のこと。
とんだ回り道の記述をしてしまった。
隆純さんはあの食料難時代に遠島で受けた恩恵を少しでも返そうという気持ちで、今日一日、私とつき合ってくれたものと思われる。
頂源院に戻ると直ぐ帰宅の準備に掛る私に、「もっとゆっくりして行ったら・・もう一日だけでも」と勧めてくれる隆純さんと了さんだったが、固辞して引き揚げることにした。
京都から名古屋に戻るのには、準急に乗るのがベストである。本数が多いだけではなくどういう訳か急行より所要時間が短い。例外は1例だけあるがそれも数分の違いである。
私は一宮で下車して、名鉄に乗り換えた。これは均一周遊券を手元に残すためである。それには迷走した旅路を如実に物語る途中下車印が27個も所狭しと押しまくってある。改札口でフリーパスした駅もあるから、実際はもっと多い筈である。
あとがき
旅行中、鹿児島へ最初に行ったときに汚れた下着など不用品を小包にして送った他は 、葉書一枚自宅へ出さなかった私を2つの訃報が待ち構えていた。
母方の祖母むろさんが亡くなったという件と、我が家の愛猫メリーの死である。祖母は90歳近い歳で以前から床に就いたままという状態だったから、さほどの感慨もなかった。メリーの方は小学校5年の頃から飼っていて、10年を越える老猫ではあるが賢く、本当に話し相手になる猫だった。何か悪いものを食べて、吐いていたらしい。大抵はそれで難を逃れるものであるが、今回は吐き足りなかったか、余程有毒なものを食べたのだろう。歳老いて抵抗力が落ちていたのかもしれない。私は、長旅から無事に帰った安堵感が吹っ飛び、喪に服すという数日を過ごすことになった。
この旅行のあと、九州には何度も足を運ぶ機会があった。今回を含めて7回になる。
昭和38年 3月 長崎
同年 7月 長崎、熊本
昭和41年 8月 熊本、宮崎、鹿児島
昭和42年12月 佐賀、長崎、熊本、大分(新婚旅行)
昭和43年 2月 福岡(出張)
昭和49年 3月 鹿児島、宮崎(出張)
昭和35年8月と39年8月に北海道へも行ったが、夏だけの比較なら九州の方が変化に富んだ風物に接することができる。春先の旅では、これが同じ九州の中かと驚くような気候の違いに戸惑うことになるだろう。
焼き物の伊万里、鶴の飛来地で知られる出水市、五島列島など、九州の中でもまだ私にとって処女地は数多く残されている。先日は高速自動車道が鹿児島まで開通したと言うし、車でまわる九州は、まったく印象の違ったものであると思われる。円高の今日、海外旅行がびっくりするほど安価にできるご時勢であるが、私はまだまだ国内の未知の土地を訪れることの方に魅力を感じる。
完
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初めての九州 1960年春
〜 工場見学のついでに巡り歩いた貧乏旅行記(3) 〜 コメント集 |
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“初めての九州 1960年春”をご覧下さった方のコメントなど
石松さん
九州旅行メモを私が書き上げる寸前に問い合わせた電話、配布直後に彼の席を訪ねた時、そして彼が読んで掛けてきた電話での会話を要約すると、こんなことになる。
K:ちょっと古いことを教えて欲しい。昭和35年頃、つまり我々がまだ学生の頃に九州の北半分を廻る準急があったと思うけど、その名前を覚えていませんか。
I:分かりませんね。私は卒業して就職するまで、ほとんど乗り物には乗ったこともなかったですからね。
K:確か“ひかり”か、“こだま”だったと思います。東海道新幹線ができたときに「召し上げられたのだな」と感じたような記憶があります。博多から熊本、別府、中津方面を巡回して博多に戻るというもので、逆回りもあった筈です。従来の急行を乗り継ぐより速いということで“ひかり”と名付けたか、行って戻ることから“こだま”だったか・・・・
I:全く知りませんでした。ただ、日輪という列車があって、そんなルートではなかったかという気がします。
I:先ほど受け取ったところで未だ封も開けていませんでした。(と言いながら取り出す)ほぉ〜!これまた詳しく書いてありますね。楽しみです。早速読んで明朝にでも電話します。吉田さんからは、もうレスポンスがありましたか。
K:彼には今朝送ったところで、まだ見てないでしょう。山田さん宛てにも一緒に出してありますが、未だ着いてませんよね。
Y:まだ見てません。いま私はボリビアのことを書いているんですよ。どこにある国か分からないと思いますが。
K:聞いたことはありますが、南米のどこかというだけで、位置は見当もつきませんね。
I:(17時少し前;いつもなら彼はもう会社にいない筈の時刻に)読ませて頂きました。そこに原文はありますか。まず、8ページの下から5行目でおばあさんの“ん”が余分になっていますね。
彼が誤字脱字の類いをわざわざ指摘してくることは、今までなかったので意外な感じがした。私は、いい気になって、いつもそればかりやっているが、本筋でないことを鬼の首でも取ったように囃し立てることは、止めた方がよいかなと自分が逆の立場になって感じた。しかし、こういう点も含めて指摘して貰えることは、私にとって誠に有難いことである。今回のように些細な誤りであればあるほど、完璧に直して置きたい。もし、新聞や著名人の著書に、その手の誤りがあったら、如何に内容が立派であっても、いい加減な書き物に見えてしまうことを体験しているから。
中学のときの国語の先生佐藤愛子さんは、新聞の誤植を毎週(毎月?)まとめて投書 しているということだった。その話を聞いて以来、小生も注意して見ているが、原稿締切りから印刷までの時間が短い新聞でどうしてこんなに誤りが少ないのかと驚くばかりである。入社3年後に“技術の友”の編集委員を経験してからは、より一層新聞の紙面作りに対して畏敬の念を深めている。
我々が編集に関わると、仮名遣い一つとっても基準があやふやで、執筆者、編集者、印刷会社の間で修正、元戻り、再修正の繰り返しになってしまう。国語審議会が定めている基準にも幅があって、二通り、三通りの表記を是認している。これを各新聞社では 社内の統一基準として、より厳密に規制しているのだろう。
雑誌の記事になると、新聞より校正に当てられる時間的余裕がある筈なのに誤植は多いと感じる。元々の原稿がワープロで作成されるための誤りがとくに顕著である。例えば 、“意外に”を“以外に”と誤記している例は、50%位もあるのではないかと感じるほど多い。印刷物の権威は大であるから、そういう誤植を見て育った若者は、そういう表記を見てももはや誤植であると言う認識も持たないかも知れない。
I:つぎに、そのすぐ下ですが、“昨年夏の四国でのように迷惑を掛けるのではないか”という表現があります。四国のことは、まだお聞きしてなかったかと思いますので、事情が分かりませんね。
K:そうですね。この文だけ読む方は何のことかと不審に思われるでしょうね。
ただ、前に出した北海道のメモの中で(P3)書いているんですよ。そんな細かいことを一々覚えて居られないでしょうけれど。
I:そうでしたか。まあ、皆さんがどんな感想を述べられるか、ぜひ聞いてみたいものです。それでは又よろしく。
・・ということで、彼自身のコメントらしきものは、余り聞かれなかった。
吉田さん
Y:(家に持ち帰り、じっくり読んできて)面白かったですね。35年前の話でしょう。何か記録を見ながら書いたのではないですよね。
K:まったく何も見ていません。
Y:フ〜ン?!では、いくつかお聞きしたいことがありますが、そうですね・・こんなとき こそ、3者電話で話してみましょうか。フッキングして、3−3239でしたね。
(と石松さんを巻き込む魂胆だったが、彼は丁度その直前に外国人を交えた打合せを始めたところで、電話などしておられないとのこと)
Y:3ページの中より少し上ですが、“九州入りして・・・・黒崎駅前の旅館に泊まることになった。”という表現が、それまでと少しニュアンスが違い、書いてないことで何かいきさつでもあったのかなと感じました。
K:何もありません。単純に“・・の旅館に泊まった。”と書けばよかったですかね。
Y:4ページの岩井さんのことを書いた注の中ですが、“東和”は“東亜”ですね。この会社には、若干関わりがありましてね。
K:うっかりしていました。その通りです。
Y:7ページ、3月31日で“青島へ行き直したい気持ちもある”という表現が私も全く同感でしてね。私の場合は友達と車で行ったのですが、鬼の洗濯板をじっくり見たかったですね。あの辺りはそばで見えたでしょう。
K:前日にあちこち通過してきて、青島を通る頃は暗くなっていて近くてもよく見えなかったですね。あの岩は日南海岸一帯にずっとありましたが、明るい頃は崖の上から見下ろすような状況でしたし。
Y:11ページの下の方で、“いつも雨に妨げられている。”となっていますが、いつもという程行っていたのですか。
K:いつもはちょっと書きすぎでした。初めて宮崎入りしたときは、夕方で暗くなっていて、ボートに乗れる状態でなかった。雨は降ってなかったけれど。
次の朝、安藤君を置いて先に出てきてしまったときに、小雨が降っていた。もし天気なら市内も廻っただろうし、大淀川でボートを漕ぐ気にもなったでしょう。
その時と、2回だけだから、確かに“いつも”は適切な表現でないと思います。
Y:その上の、溶岩の写真のことですが、“鹿児島出身の人から頂いたものだった。”というところが、ちょっと違和感があります。言っていることは分かるのですが。
K:実は旅行中の写真を貼ったアルバムを知人に送ったのです。そして写真の脇に説明の文章を今回のこれと似たような具合に書いていたのです。それに“桜島へ行ったら珍しい光景で、ぜひ写真に撮りたかったのだけれどフィルムがなくて残念だった”と書いたんですね。そうしたらその部分に溶岩の写っている写真を挟んで送り返してくれたのです。だから、その人が鹿児島へ行ったことがあり、自分で撮った写真をくれたものと思ったのですが、あとから聞いたところによると、級友に鹿児島の人がいて、その方にもアルバムを見せたら手持ちの写真をくれたということのようです。Y:12ページの何100年という書き方は、石松さんから指摘されませんでしたか。
K:何百年の方が適当だったかなぁ。彼はそういう細かいことには無頓着ですね。今回は若干違いましたが。
Y:最後のページで均一周遊券を手元に残すために一宮で下車したというのは、ちょっと思いつかないやり方でしたね。私も均一周遊券を使ったことはありますが。27も途中下車のハンコが押してあったら、確かに宝物ですね。名古屋駅まで乗ると取り上げられてしまうのですか。私の兄はそういうものを残したりするのが好きでしたが私は思いも寄りませんでした。
その後も随分何回か九州へ行っているのですね。同じ年に行ったり、毎年続けて行ったり。
K:最後の2回は出張です。43年は貨車輸送中車両の塗装の品質低下、鉄粉かぶりが元町のヤードを出てから、どこでどの程度酷くなって行くかを追跡調査したのです。業務部の田波係長とかトヨタ車体品保の竹内係長といった人たち、それに自販サービス部 の方が一緒でした。
最後は、品保から5技に移った頃で、クリヤー塗装の経時劣化の調査に行ったときのことです。他社が先行実施しているクリヤーにひび割れが出てないかということで、広島にも行きましたね。
(その他、何ヵ所かの指摘、確認があった)
平野○○子(姉)
(白内障が進行して月末に手術を受ける目で、老眼の進行と相俟って眼鏡のみでは字が読めない中を天眼鏡併用で苦労しながら見てくれたらしい)
T:磊ちゃんって、隣の年上の女性を自転車に乗せて伯母さまのところへ行ったことがあるの?小学校に上がる前に。込野へ一人で行ったことは記憶にあるけど、名古屋まで行ったというのは知らなかったわ。女の人と言うと伊都子さんかしら。
K:女の人などと書いてないよ。年上というのは肇さんのことだよ。肇さんは小学校の1年か2年だったけど、兄貴はまだ小学校に入る前だったと聞いている。子供用の自転車に乗れるようになって、お宮へ遊びに行ったら、庄内川の堤防まで行くと鈴虫だかクツワムシが鳴いているから捕りに行こうということになった。庄内川の大正橋から中村の大鳥居が見えた。あそこまで行こう。ここまで来たら、門前町の伯母さまのところに寄ってみたい・・とエスカレートして行ったらしい。
私はまだ生まれる前のことだから、あとで兄やおふくろから聞いた話だ。伯母からも聞いたと思う。
石松さん
I:吉田さんと話したら、九州の旅行記について私のコメントが少な目であることに「Kさんはご不満のようでしたよ」と耳にしましたので電話しました。
K:不満なんてありませんが、いつも内容で印象的なことを一、二点触れられるのに、先ず誤植のことから入られたので意外に感じたというだけのことです。
I:今までいろいろ書いかれたものを見せて貰っていますが、大きく分けて二つに分かれると思います。一つは講習会レポートとか誰かとの電話で聞いた話の再現、これは速記録の能力というか、復元が鮮やかで言うことがありません。もう一つは、自らの行かれた旅行とか、葬儀参列体験記です。その批判を許していただけるなら、これは初めて読む人には、読みにくい。何故かと言うと、必然性のない描写が次々に出てきて疲れる。同じ紀行文でも奥の細道や土佐日記では、訪問先と作者の相互交流があって、人生が語られ、人間的に成長していく過程が述べられている。そしてクライマックスにつながって行く。
今回の14ページの文章も内容を分けて半分にすると読みやすいと思います。あれこれ書いてはテーマがボケてくる。青春の旅で何を掴んだか、何に感動されたか途中の事件の起承転結など興味のストラクチュアー、全体の構成をしっかりした記述をすると興味深く読まれるものになると思います。
K:私の旅行はいつでも計画があやふやで、行き当たりばったり、どこへ行くか自分でも分からない。山田さんのように出発前の計画段階に調べらることは徹底的に調べ、行き先が舞台になった小説を読んだり、歴史上の出来事まで勉強してから行く、旅行の後もいろいろ反省して、次回の旅行に反映させるというQCサークルを回すような旅とは大違いです。紀行文の深みという点でも比べものにならない。
K:いや、こういう旅行の仕方でも興味深い文章が書けないということはないと思います。却って、計画通りの旅よりハプニングが多くて良いくらいです。行く前から予想でき行ったら思った通りだったというより、ずっといいですよ。
ところで吉田さんからは、何かコメントがありましたか。
K:沢山指摘してくれましたよ。誤字は勿論ですが、ここの表現が回りくどいのは、省略している何かがあるからではないかとか、ここは分からないではないが、こう書いた方がよくはないかとか、・・・・
I:私はそんなアラサガシはやりません。彼はヒトの書いたものを捻くり返してばかりいないで、まず自分で書いてみるべきです。
山田さん
Y:Kさんの文章は、ヒューマニックでメンタルティーに富んでおりよいと思います。
私自身は、心理学をやりましたから、人の心が分からない方ではないのですが、人間関係のアヤを表現することは苦手です。
九州旅行は、学生のときのことを書いてある。学生の観点から、学生として行動した様子を、当時の認識のままで書いておられて、これはこれで良いと思います。
K:私の場合は、その後も進歩がありません。今でも同じようなことをし兼ねません。
Y:私も学生のときはゼミ旅行をして、山陽・山陰をマージャンばかりして廻ったことがありました。宿に着くと、泊めてくれるか、幾らか、マージャンはあるかと聞くのですね。ある旅館で、「マージャンはないけど、どうぞ!」と言われた。そして、宿の主人が遠くまで借りに行ってくれた。これが骨牌という象牙製の大きい牌で、17個積んで支えると重くて大変でした。・・・・
近藤さん
また九州の紀行文を送ってもらいましたが、私は北海道の方が良かったと思います。
それにしてもKさんは行動力と体力があり余っているのですね。飯抜きで飛び回っているとか。
私が知っているKさんは、特許管理者として非常にジェントルマンで物静かな方ですが、本当は奔放に暴れ回るタイプなんですね。それだけのエネルギーがなければ、シルクスクリーンとか、油絵とか、いろんな趣味でも出来ませんよ。
私なんか仕事だけでへばってしまい、他に何をやろうとまで思いませんよ。
K:そういう点では香取さんが一番ですね。彼は仕事もしっかりやっていますが、写真やコンピューターグラフィックスをやっています。最近では能面作りまでしています。前は自転車で相当遠くまで走り回っていましたし・・・・
吉井さん 1995年11月5日
先日お送りいただきました九州旅行記は、懐かしく拝読させていただきました。
私は熊本大学在学中に自動車部に所属していて、1年生のときから部の行事として毎年九州一周ドライブをしておりました。行く先々で地元の大学の寮に宿を取ったり、名所 旧跡を訪れたりしておりましたが、この旅行記に出てくる所と殆ど一致していて、大変 懐かしく思いました。30数年も経っているのに、最近のことのように細かく思い出しておられるのには、その記憶力の素晴らしさにびっくりしています。
USAの八幡宮とか、鹿児島の池田湖とか、そうだったなあと思い返しながら楽しく拝読しました。
私も各地で地元大学の自動車部の人々や、そのOBの方々にお世話になりましたが、名前を思い出せる人は少なく残念に思います。
考えてみますと、これからもまた国内はもとより海外にも旅をしやすくなった年頃かと思います。その時は、私もあとですらすらと文章が書けるように記録をしっかり残しておきたいと思いました。
寒くなってきました。風邪が流行っているようです。お体には気をつけてお過し下さい。 |
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国際ロータリー旅行「どんとこい秋の東北4日間」1998.11.15(日)〜18(水) |
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日程 第1日(11/15) 8:20 名古屋空港国内線1階出発ロビー集合
(夕食付) 9:00 ANA703便
10:35 新千歳空港着
函館山から夜景観賞(オプション、以下OP)
湯川温泉“ホテル万惣”泊
第2日(11/16) ホテル 五稜郭公園 トラピスチヌ修道院 大沼公園
(3食付) 函館朝市 JR函館駅(14:02発) 津軽海峡10号
JR青森駅(16:41着) “十和田湖グリーンホテル”泊
第3日(11/17) 十和田湖遊覧(OP) 奥入瀬散策 焼山温泉“奥入瀬
(朝夕食付) グリーンホテル”泊
第4日(11/18) ホテル 八甲田ロ−プウェー(OP) 青森空港
(朝食付) 名古屋空港13:15着 11:55ANA408
*はじめに
妻○○(以下、H)の北海道狂いに、また付き合うことになった。
9月の初旬に登別、昭和新山、洞爺湖、京極の湧水、小樽、札幌などを二泊三日で見てきたばかりだというのに、毎週月曜に中日紙朝刊に出る国際ロータリー旅行(Nicos Cardのシツコイ広告で有名な日本信販のグループに属する旅行社;以下、ロータリーと略称)の広告で「また魅力的なツアーを見つけた」として、4年前に結婚して横浜市郊外の都筑区に住む次女を誘って申し込んでしまった。
それは函館の夜景が見られることと、青函トンネルを通る列車に乗れること、まだHが行ったことのない東北地方の一部が日程に含まれているという点で好奇心をくすぐったのである。函館の夜景観賞は既に5年前、ゆうとりっぷから帰った1カ月後に近所の嫁さん連中と出掛けた初めての北海道旅行で体験済みであるが、その時受けた感動が余程大きかったらしく「娘にぜひ見せてやりたいし、自分も何度でも見たい」ということだった。
ところがその後で、次女の姑さん(東広島市在住)が入院先の病院で亡くなるという非常事態が生じたために、次女は七七忌など夫婦で帰省しなければならない用事もあるし「喪中に浮ついた旅行などしていられない」ということになった。
こんなとき、日頃食べ歩きなどで付き合っているHの友人・知人は多いのだから、誰かピンチヒッターが居そうなものだが、「泊まりの付き合いが出来るような友達はそう居ない。誘えば行ってくれる人は確かに居るけれど、そういう人と行くことを私は好まない」とのこと。その理由がHらしい。
「私はあなたのように周りのことに無頓着で自分勝手な行動が出来る性格ではない。四六時中相手のことを気遣うので疲れてしまう」、「私はイビキが酷いから嫌。『イビキなら私もかくから大丈夫。気にしないで』と言ってくれても、私は自分のイビキを人に聞かれることに我慢できない」、「私はお腹が出ているのを見られたくない。50歳を過ぎた主婦なら殆ど誰でも大きな腹をしている。見掛けは痩せていても腹だけは出ているものだと知っている。でも私は人前で裸になるのは絶対に嫌!」・・・・といった調子。つまりは、自分が普段思われている以上に見苦しい身体や寝相を知人の目に曝したくないということである。
前回「もう二度とあなたなんかと旅行はしないからね!」と意気込んで宣言していた舌の根も乾かないうちに、私を連れていく気(私にとっては連行されること)になった理由は「あなたとなら気を遣う必要が無いからね」の一語に尽きる。
*出発日間際のスケジュール変更
出発の一週間前にロータリーから電話があった。「15日ご出発の“どんとこい秋の東北”にお申し込みの河合様ですね。実は最初の日に名古屋を午後3時過ぎの函館行き便を予定しておりましたが、都合により午前9時出発に変更させていただくことになりました。到着地も新千歳空港となりますがご了解頂けますでしょうか」。午後の出発では到着したら函館山に登るだけで、その日は終わってしまう。それが昼前に北海道へ着くということなら、結構なことは無いではないか。「はい、はいっ!」の二つ返事でOKした。しかし、考えてみれば、新千歳から函館までバスで移動するとなると、相当時間が掛かりそうである。「5時間以上もバスに乗るのですか」と尋ねると、はっきりした所要時間は答えず、「長万部までは高速道路もありますし、それ程ご負担にはならないかと存じます」ということだった。
翌日には新しいスケジュール表が送られてきたが、ろくに目にも止めずに、一緒に届けられたステラパークISHIGUROという駐車場の案内に従って、15日から4日間の予約をした。名古屋空港周辺ではどこでも1日当たり千円となっていて、ここも同じであるが3日以上の予約に対しては100円ずつ引いてくれるという。空港までの往復をマイクロバスで送迎することはどこも同じである。ここはキーを預からないで、日程が変わっても随時出られる状態で駐車しておくという点が今まで利用していた希林駐車場と違っていた。そしていよいよ翌日が出発日という14日になって、またロータリーから電話;「先日お送りしました日程表で出発が11月16日となっていますが、お客様の予定日は、お申し込みの通り15日です。それ以外は全て同じ行程となっています。印刷ミスをして大変失礼しました」。そう言われても、我々はそんな間違いが記載されていることに全く気付いていなかったので、ロータリーが電話してくれなくても何の影響も無く出掛けていただろう。
以後、旅行中の様子を思い出すまま記すことになるが、今回のメインテーマは“オー、ミステーク”ということにしておこう。取り敢えずは、このロータリーのミスプリントが第一弾ということになる。そして旅行中に添乗員から聞いたところによると、出発時刻と着陸の空港が変わったのは、ロータリーの中で北海道と東北地方では担当者が異なり、今回のように両方にまたがるツアーでの連携の悪さから生じたことだったようだ。それにもう一点、これも我々には好都合であったが、二日目の宿について、やはり行き違いから当初予定した旅館のダブルブッキングがあって、急遽一ランク上のホテルに変更したということだった。
*旅行中の天候
旅先で悪天候に悩まされたという記憶が殆ど無い私は、天気のことなど気にもならないが、Hは前々からテレビの予報に注目していた。一週間前くらいからは「いつもこのツアー期間中雨か雪のマークが続く」ということで、前日になっても名古屋が午前中晴れ、午後曇りとなった他は変わず、北海道・東北共に好天は期待薄という報道だった。そして結果的にほぼ予報通りとなった。
*旅行中の乗り物
往復は全日空のジェット旅客機で機種まで調べてないが、行きは26ABの席が左の窓際で丁度主翼の中央付近、帰りは28EFが右窓際で最後尾から3列目だった。つまり青森からは小ぶりな機種だった。
新千歳から函館までと、翌日の昼過ぎの函館駅まではロータリーの専用バスだった。北海道で3台あるうちの1台とかで、Nicosのブランドカラーである紫がかった明るいブルーで全体が塗られ白の文字で品良く社名とロゴが描かれていた。
青函トンネルは津軽海峡10号という快速列車で通りぬけた。入り口と出口側の二箇所に海底駅があり前者では修学旅行中の高校生が下車したが、後者には停車しなかった。各車両の前後のドア上部にトンネルの断面図が描かれていて、電光表示でトンネルのどの部分まで進行してきたかが表示される。また5キロおきに入り口からの距離数と海面からの深さが数字で表示される。最深部が近づくと、その表示内容をカメラに収めようと乗客たちが大勢ドア近くに集まった。最深部は海底が海面下140メートルでトンネルは更に100メートル下に掘られている。青森駅には津軽海峡と周辺部の標高線図が掲げてあった。それによるとトンネルは本州と北海道の距離が最短の場所ではなく、海底の水深も加味して選定されたことが一目瞭然である。
青森駅にはこの日に泊まる十和田湖グリーンホテルと同系列の古牧グリーンホテル所有の大型バスが迎えに来ていた。ホテルがある十和田湖南側の休屋までは湖の西側を通る高速道路経由で行った。一般道に下りると真っ暗な山道が延々続いた。一時間半の間にすり違った車は5台もあっただろうか。そして青森駅からは2時間半も掛かったので、うんざりして疲れがどっと出た。
翌日の移動にはホテルのマイクロバスに乗った。三菱ローザの古い車で補助席まで使って超満席。手荷物も持ち込めないほどだったが、OPの十和田湖遊覧船に乗っている間に次の宿泊場所に運んでおいてくれた。遊覧船の乗り場はホテルから徒歩3分の距離で、朝部屋の窓を開けると3艘の観光船が間近に見えた。うち2艘は双胴船であり、我々はその一つに乗った。
最終日もマイクロバスだったが、こちらは旅館協会で共同購入している新型でゆったりしていた。この日に予定していた八甲田山のロープウェーは既に冬季運休に入っており、登山道も通行止めになっていたので、粉雪の舞う中を道の駅“奥入瀬”と
“ねぶたの里”を経て青森空港へ運んでもらったのみ。
空港での待ち時間1時間20分、11時55分発の便で名古屋空港に13時25分に帰ってきた。
以上、内容別に書こうとして下らないことを書きすぎた。Hさんの目を盗みながらで、これだけ書くのに1カ月が過ぎてしまった。最早、旅行中の新鮮な感覚も失せてしまったし、書く意欲そのものがあまり湧かない。ただ、旅行中に書き溜めたメモが残っているのでそれを見直しながら、思い出すまま記載してみる。体裁は日記風とするが、いつものように時空を超えた表現が随所に混ざり込むことになりそうだ。
1日目:11月15日(日)<新千歳空港から>
空港から乗り2日間お世話になる株式会社ノースジャパンのバスは、先に書いたようにロータリーの専用車である。ガイドは志村さんというベテランの方で年齢は40代に入ったくらいだろうか。顔つきが、メーキャップの加減もあって、宝塚の男役のような感じである。運転手は高橋さんという独身女性である。女性の観光バスドライバーは北海道内にもう一人(?)居るが、志村さんによると、容姿でこの高橋さんが遙かに勝っているのだそうだ。確かに私の知るところでは、材料技術部のYさんが5、6歳年を取ったら、こんな感じになるかというふうに思った。と言っても分からないだろうけれど、Yさんはスキーが上手く、歌わせればプロはだしと噂に聞く、スタイルもべリーグッドな女性である。それより若干歳は感じるが高橋ドライバーも非常に魅力的な方であることに異議無かった。
なお、名古屋からの添乗員は男性であるが、同じく高橋さんという。後で聞いたら岐阜県土岐市の人で、ロータリーには2年ほど前に入社したところであるが、前から同じ仕事をしていたとか。この職業は女性が圧倒的に多いとも聞いた。
ツアーに参加した客の人数は24名で、中高年の夫婦連れが多いが、女性だけの5人組と30代と思われる夫婦で小学校低学年の学童期と見える子供連れが一組含まれていた。5人組の女性に限らず、今回参加した殆どの女性がスモーカーで車内禁煙が余程辛いのか、小便休憩になるとところ構わず立ち煙草を始めるのだった。
函館までの300キロという長い道程は、ただ走るだけで観光的要素がこのツアーに折り込まれていない。そこを飽きさせないように志村さんがいろいろと北海道情報を伝えてくれた。それらを列記する。
1)今年は雪の降り出しが遅く、異例に降雪が少ない。
2)函館の夜景は、一年の中でもこの時期の夜景が一番美しく見える。
3)ロータリーのツアーでは、道南の場合で一日400キロ、道東では450〜500キロの移動が普通。
4)メルヘン街道というツアーでは、道東を9時15分に出発、富良野を経て登別まで537キロ。二日目は美瑛を見て函館まで350キロ。3日目に昼頃千歳空港 へ送り届けて、トータル1200〜1300キロ。こういうツアーには歳の多い方とか妊 婦は参加しないほうが良い。途中でギブアップする例が少なくない。
5)函館の夜景を見に来る観光客は年間500万人。
6)11月はシーズンオフだけど、ロータリーと阪急交通社の2社が強い。
7)函館山の登山道路は本日通行止め。ロープウエー料金は往復2200円であるが団体客は880円。今は冬期料金で773円。
8)王子製紙は支笏湖から水が引けるという地理的条件から苫小牧に工場を造った。函館港は入り江の奥にあるが、この港はなだらかな砂浜に造った内陸掘り込み式 という形式で、世界でも成功例は3例しかなかった。その後、日本では12港で きている。
9)羊蹄山の頂上は火口が二重、三重式になっていて、溶岩が粘土質のため火口に水が溜まる。過去20回の爆発が記録されている。昭和52年に大爆発。同年に有 珠山も爆発したが、こちらが大きかったので目立った報道はされなかった。
10)日本のサラブレッドは80%が北海道産で、残りが九州産。道産子馬(元々は南部馬)はあまり見られなくなった。絶滅しないように各地に道産子牧場が作られ ている。
11)馬は生まれたときが1歳で、2歳まで育てて出荷される。
12)白老アイヌコタン(村)は、この頃ツアーで通過されることが多い。
13)アイヌ人の新生児のお尻にはアオアザ(蒙古斑)がない。
14)虎杖浜(こじょうはま)温泉は漁師が井戸を掘ったら温泉が出たという。登別には駐車場がないので、40分ほど離れたここに観光バスの乗務員の専用宿が設け られている。民宿も多く、安く良い湯が楽しめる。
15)道南では登別の湯が一番良い。湯元は地獄谷で110度C。これは東北の鳴子温泉の140度、別府の130度に次ぐ第3位の高温とか。
15)登別という地名はアイヌ語のヌブリベツ(白く濁った川)から来ている。
16)熊牧場には180頭の熊がいて、地元では世界一と言っている。熊の肝は中国へ30〜50万円で売れる。昔から肝を売ったお金を従業員の手当として配ってい たことが問題になり、上層部が辞職した。今は牡と雌を分けて繁殖しすぎないよ うにしている。
17)北海道は東西800キロ、南北600キロで、その面積は83,500平方キロある。これは九州の2倍に相当する。本州で言えば、東北6県と新潟・富山を足 した面積になる。地図で見るとそれほど大きく見えないのは図法のせい。
18)北海道の有料道路では小樽−札幌間のみが黒字。
19)室蘭市にできた白鳥大橋は北海道唯一の港大橋。
20)室蘭に三つあった日本製鉄の高炉の火が今は一つしか点いていない。鉄の需要が伸びず、これもいつ消えるか分からない状況。
21)同工場内に日鉄セメントがあり、コークスの燃え切らないものに水を掛けてバラバラにしたものをセメントにしている。
ここまで聞いたところで有珠山サービスエリアに到着。13:10から15分間の休憩後またバスで一路函館へ。
22)伊達という地名は仙台藩、伊達クニシゲ公が戦いに敗れて、この地に移ったことから付いたもの。華やかなパレードをして入植したが、道端に生えている草まで 食べる厳しい日々を過ごしたという。
23)昭和新山は高さ407メートル。8軒の農家がリンゴ、麦などを作付していた平坦な畑に突然山が誕生した。地震が多いときは一日に204回、半年続いた後で 翌年6月に地震、地割れ、爆発があって隆起した。昭和25年に特別天然記念物 に指定された。
23)昭和新山は三松正雄さんという郵便局長が当時の金28,000円で買い取り所有物とした。彼は2年がかりで山が誕生した様子を克明にスケッチするなど記録 した。後に発表して世界中の専門家をうならせた。固定資産税を自主的に納税。
24)有珠山は昭和52年の爆発で姿形が変わった。8月6日、地震の異常さを感じた地元民は避難して無事。2年後、3日間降り続いた雨で泥流に3名が流され犠牲 になった。
25)洞爺湖では夏の観光シーズン中、毎晩100万円の花火を打ち上げる。1発2千万円という4尺5寸玉(直径1.4メートル)は世界一ということでギネスブッ クに載った。(その前年に試みたときは不発に終わっている)
26)北海道には25の湖と2200カ所の温泉がある。後者は年々増えている。因に九州の温泉の数は人口比では北海道の2倍という。
27)洞爺湖温泉は54度C。5月から7月10日までと秋は高校生で満杯になるので大変騒がしく避けた方がよい。
28)シズカリ峠は、平成9年10月まで37号線で通っていた四つの小さな峠を11のトンネルで繋げてできた。
29)夜泣き石は関所破りの首を切った場所。倭人の住む北限として設けた関所で、ここより北はアイヌの土地ということになっていた。
30)松前藩は徳川幕府に特別の許可を得て、ニシンの獲れ高を禄高算出の基準にしていた。ここから北前船で大坂へ昆布を運び、逆に味噌・醤油・酒・煙草などが運 び込まれていた。
31)シャモ勘定という言葉は倭人がアイヌの無知につけ込んで数を誤魔化した数え方をいう。10を数えるのに、「初めに」と言って一つ取り、「1、2、3・・・・」 と続け、10のあとに「オシマイ」と言ってもう一つ加える。つまり12取って 10に相当する対価しか支払わなかった。「ニホンジンという言い方の由来は、 “実際より2本多くシャケを掠める人間”という説もある」というのは志村さん が考えた冗談。
32)落部(おとしべ)は人口の割に寿司屋が多い町。とくにボタンエビが美味。
33)イカメシはジャンボイカは避け小振りなものを選ぶのがよい。冷凍ものより真空パックの品にすべき。
ここで森町に入った。左前方に駒ケ岳があり2週間前から始まった噴火の噴煙が出ているはずであるが、曇り空で見えず。
34)北海道は昆布の採れ高が一番であるが、買わないことでも一番。沖縄の人が一番食べている。また昆布は沖縄で買ったほうが安いと言われる。昆布醤油はダシが 効いていて煮物に最高。
35)そろそろホタテ漁が始まる。ホタテはほとんど養殖。天然物は高いが味は殆ど変わらない。漁師が「ホタテを欲しいか」と言うので、「欲しい」と答えるとスコ
ップですくって置いていく。ゴミ袋2、3杯分の殻を外しても身は少ししか採れない。
36)北海道で食べているニシンはロシア産。昔は干して食べることしか知らず、獲れ過ぎたニシンを地中に埋めていたが、いまや幻の魚。ニシンの供養塔を建ててい る。ニシンは鰊という字のほかに鯡(魚に非ず)とも書く。アイヌは“カド”と 呼んでいた。“カドの子”が“カズノコ”になった。
37)今年は真烏賊が不漁。イカメシを作るときは、イカの体内に少なめに米を詰めて1時間半弱火で焚く。
38)揚げイモの衣はホットケーキの粉。ジャガイモを箸が刺さるかどうかという程度の固めに茹でて、牛乳でカタクリ粉とベーキングパウダーを解いたものを付けて 揚げる。
39)北海道では塩茹でのジャガイモに塩辛を付けて食べる。バターを付けると年寄りは馬鹿にする。
40)兼作の塩辛は若作りがお勧め。
41)駒ケ岳は全国に15ある活火山の一つ。2週間前に蒸気爆発をした。この辺りでは火山灰のために農作物が取れない。3〜5メートル掘らないと黒い土が出てこ ない。
42)ミンクは酒も飲まないのに肝臓が弱く、ときどきグロンサンを飲ませて飼う。
43)夕張メロンは製造過程では野菜、流通で果物扱いになる。ほかに果肉メロンという絹のような歯触りのメロンもある。旭キングメロンも同様。
44)トウモロコシは5、6月頃から売られている。それは本州から送られてくるもので400円もするが、半分以上の人が「不味い」と言って食べ残していく。焼き トウモロコシは冷凍ものであることを誤魔化すために焼いているものが多い。
地元産のトウモロコシは7月に出始める。
45)トウモロコシのヒゲの数と実の数は同じ。ヒゲから花粉が入って実になる。
右側に“じゅんさい沼”(周囲8キロ)を見てしばらく行くと左に“小沼”が見えてきた。大沼国定公園には“大沼”の他にこの二つが含まれている。“じゅんさい”は高級料理の付け合わせに出される表面がヌルリとした植物である。それが密生していることで“じゅんさい沼”と名付けられている。沼と湖の違いは最深部の水深によ
って区別されるのだそうで、その基準からすると三つ共に湖になる。“大沼”が昔からの地名なら、“大沼湖”とでも言うべきところだろう。なお、大沼は冬期、天然のスケートリンクになる。
この辺りには“熊出没中”という看板があちこちに建てられている。ヒグラシ山に熊がいて一般道にまで出てくることがあるという。
函館新道の大沼トンネル(747メートル)を出ると左側壁面に鹿の絵が描かれている。通り過ぎて見返ると白鳥の絵に変わっている。ダッコちゃん人形として一世を風靡したウインキーの目玉を大型にしたものである。
前方に函館山があるという地点まで来たが、かすんで見えない。ロープウエーの山麓駅まであと50分。ここで右折して、3年前にできたという新道227号線に入った所が大野町。ここにいずれ新幹線の新函館駅ができるという。
バスの車内がバカに暑い。私は運転手のすぐ後ろの席に座っていて、右前のピラーに温湿度計が取り付けられていることに気付いた。それがなんと28度C、82%RH。9月に来たときのバスガイドさんが「家庭では室温を28度に設定して、薄着で過ごしています。たまに友人の家を訪ねて、そこが26度だったりしたら、もうこりごり二度と行きたくないと感じますね」と話していたのとピッタリ一致する温度だった。私は「ちょっと暑すぎるように思うけれど、北海道ではこれ位の温度にしておくのがサービスだという感覚ですかね」とガイドさんに皮肉を込めた質問をしてみたけれど、真意は理解されず「ちょっと下げましょうか」ということにはならなかった。
そして、9月下旬頃から暖房を始めるのが普通で、真夏でもストーブを入れることがあるという話がされた。
この辺りでは、小樽、札幌で目に付いた平屋根の中窪み式家屋は殆ど見かけない。トタン屋根で勾配が緩い家が多い。逆に急勾配の家も見られる。雪崩避けでもあるという軒先の足場が付けられている家は一割くらいと見た。
227号線は丁字路に当り左折して七重浜に向かう。ここでやっと函館山が見えてきた。13:45。一時止んでいた雨がまた降り始めた。
北海道の紅葉は赤が少ない。「茶色の多い、落ち着いたセピア調の紅葉で、紅葉というより黄葉ですね。私はこの北海道の黄葉の色が大好きです」とガイドさんが表現していた。気温の差が大きいときほど色が鮮やかとなるのは、いずこも同じであるが初雪は降るとそこで紅葉の色づきが止まるという。今年は観測史上5番目に初雪が遅かった。10センチの雪が10日間ほど続くと根雪になる。それが12月中旬過ぎというのが通常の年であるということだ。
ガイドの志村さんの北海道情報列記を続ける。
46)北海道では本州と動植物の分布が違う。例えば、熊は羆(ひぐま)と月輪熊というように異なる。
47)熊は冬眠するというが、正確には冬眠ではない。蛇や蛙は山火事でも起きないが穴蔵に餌を入れてやると目覚めたら食べてまた眠る。餌が足りなくて人里に出て くると危険である。
48)標高 800〜1000メートルで高山植物が見られる。
49)白樺は“森の佳人”という呼び名があるが、農家はガンビと言って歓迎しない。畑に生えると、それは荒れ地の証拠だから。
50)白樺は水が豊富な木で、幹に小刀で傷を付けると水が噴き出してくる。遭難者の命を救う木にもなる。この樹液は“森の滴”という名前を付けて売られている。 「冷やして飲むと美味しい」と言う男性が多い。
51)北海道では杉、檜、赤松は道南にしか育たない。杉は室蘭辺りまで、赤松は函館近辺のみ。
52)モミの木はないので、クリスマスツリーはエゾマツ、トドマツで代用する。この木は紙の原料にするのに60年くらい掛かる。シズカリ峠では20〜30年ものが多 い。
53)枝が上を向いているのがトドマツ、下を向いているのがエゾマツというが、雪が解けた春先はトドマツの枝も下に垂れ下がっていて見分けにくい。幹が褐色の魚 の鱗状であるのがエゾマツ。
54)牛はホルスタイン、ジャージー牛、黒毛和牛などの種類があり、−60度までは牛舎がなくても育つ。四つある胃の一番目が14キロワットの熱量を発し体温を 高く保つから。(?)
バスは長万部に到着した(14:05)。この地名はシャマンベタプリというアイヌ語から来ている。5号線は左へ続くがバスは右へ曲がって倶知安へ向かう。この辺りは北海道一の降雪地帯で、一晩に5メートル積もったという記録もある。近くのニセコアンヌプリのみでも5カ所のスキー場があり、5月末まで楽しめるとのこと。左が137号線という交差点から小樽まで135キロを直進。この道は毛蟹街道と呼ばれる。長万部駅の蟹弁当が有名だったが、今では駅弁にはなくなってしまっている。
注:ある辞書には長万部の語源をオ・シャマン・ペッという“川尻が曲がった川”の意味のアイヌ語からとしている。
55)JR中ノ沢は毛蟹の名産地だが乱獲が祟り、今はメス蟹は獲ることを制限して海に戻している。
56)函館の朝市の値段は他所と変わらないが豊富さと新鮮さでは一番。
57)毛蟹は重いものが良いとされたが、身が入っていて重いのか、凍っていて重いのかの見定めが難しい。身や味噌が入っていることを確認する方法があるが、凍っ ていると分からない。この時期の蟹は身が入ってない。4〜6月が良い。
14:20、雨は止んだが曇っていて駒ヶ岳は見えない。バスは国縫(くんぬい)を通過。暗いところのアイヌ語“クンネイ”からきた地名という。このように北海道の地名はアイヌ語が多く、80%を占めるそうだ。それに倭人が当て字を付けた地名になっている。北海道の人でも近くの地名しか分からない。北海道各地の地名を正しく読める人は北海道生まれの人でも非常に少ない。就職試験で海沿いの地名を答えさせるような問題がよく出されるとか。
ここでガイドの志村さんから函館山にロープウエーで上るときの注意事項が話された。上と下では気温の差が8度ほどある。上は非常に寒いので防寒準備をしっかりするようにということだった。
この辺りの道路の両側には鉄柱が立てられており、上のほうが道寄りに曲がっていて、その先に下向きの矢印が付いている。矢の指す先が車道と歩道の堺部分である。更に細かくいうと、進行方向左側の矢印は赤白、右側は黄胃白のまだらに塗り分けられている。これは雪が深く降り積もって道路と田畑の区別が付かなくなるときの備えである。ところが同じような道路状況に見えても、こういう鉄柱が立てられてない所もある。そこは冬期にブリザードガード(壁)を付けるのだそうだ。それが無ければ車が転倒するほど強烈な風が太平洋から吹き付けるとか。
長万部から八雲の辺りまでは竜巻がよく起きるところでもある。八雲という地名は一週間のうちに八回曇ることから付いたという説もあるが、実は名古屋にそのルーツがあるという。尾張藩士徳川義勝公が刀を捨て農民になって開拓した土地で、遠くの郷里を忍び、「八雲立つ、八重垣、・・・・」という古事記にある一節から取ってつけた地名であるというのが正しいようだ。今でもここは名古屋出身の人が多いという。
木彫りの熊といえば北海道のどこの観光地へ行っても売られているし、アイヌが彫る様子を見せているところもあるが、元々は八雲がルーツだという。義勝公の孫が欧行の折に見た熊の木彫りを家臣にやらせたことに始まるのだそうだ。
八雲は酪農王国と言われ、太平洋牧場という広大な牧場が道路の右側にあったが、いまは潰れて放置されたままになっている。
冬期用に牧草を溜めるサイロは、牛一頭当り4.5立方メートルの容積を要し、建設には一基300万円も掛かる。最近は袋の中で発酵しロール状にした牧草を購入して使うようになったので、サイロは要らなくなっている。既にあるサイロには干草とデントコーンを混ぜたものが詰まっている。八雲で一番大きい西山牧場のサイロは、水ガラス製で建設に4000万円掛かったそうだ。この材料は青函トンネルの建設途中に開発された。
バスが渡った橋の下を流れるのはゆーラップ川。この川にも鮭が上ってくる。3、4、5年魚が混ざっているが、その中で一番多いのは4年魚である。鮭は生まれた川に戻ってくるという。なぜそういうことが出来るかについては、二つの説に絞られてきているという。太陽の光の角度とする太陽コンパスせつが一つ、もう一つは川の匂いで識別するという嗅覚説。
そこで目をつぶした鮭と鼻をつぶした鮭を放して実験したところ、嗅覚説に有利な結果が出たそうだ。しかし、鼻をつぶした鮭も戻っているので、太陽の光を感じている鮭も居るかも知れないし、他の鮭に追随しているだけかも知れない。
鮭の牡は鼻曲がりと言われる。川に戻ると鼻が伸びて戦闘的な顔になるのである。雌が尾びれで砂を避けて産卵し、牡が白子を掛ける。雌は最後の力を振り絞って砂を掛ける。すると牡は別の雌を捜しに行くという。魚の世界も浮気は男の甲斐性であるようだ。
産卵の終わった鮭はホッチャレ(「放っておけ」の意か)といい、猫も跨いで通るほど不味い。海で獲った鮭の味が一番よい。時知らずで、旅に出ずに河口の近くをうろうろしていて、餌がなくなると川を上ってくる鮭がいる。それが旨い。
16:30、やっと函館市内に入る。昨年出来た橋を渡り、右側が函館港。天然の良港で、“綱要らずの港”と開国の頃、外国人に絶賛を受けたという。青函連絡船は廃止されたが摩周丸のみは博物館として残している。左手が駅で、すぐ隣接して朝市の開かれる場所(海鮮市場)がある。そことウォーターフロントが函館の新名所となっている。
ロープウエーで山上に上がったのが16:50。既にかなり暗くなっていたが若干ガスが掛かっているためもあってか、17:30に集合して夜景をバックに記念写真を撮るということで解散になった。
函館山山頂からの夜景は、Hさんの言う通りの素晴らしさだった。この景観のために市内繁華街の照明の光の色にも規制があるのだろう。ネオンの赤とか青といった色がほとんど目に付かない。肉眼では定かでないが、主だった建物にはライトアップがされている。ここの地形の特色は突き出た半島の先端部であり、ロープウエーで上がってきた峰の左右に海と町の灯が見えることである。左が函館港側であり入り江と繁華街が見下ろせる。右は湯川方面になる。緩やかな曲線の湾になっているこちら側も、若干光の密度が低いけれど結構素晴らしい眺めである。夜景を見る場所が三カ所ほど設けてあって、観光客が思い思いにカメラのシャッターを押していた。しかし、多分仕上がった写真を見て幻滅を感じるだろう。夜景モードの選べるバカチョンカメラもないではないが、そんなことまでして撮っている人は皆無に近いと思われるからである。私の持参したカメラには元々夜景モードがないので、駄目であることは承知の上だったが、立体写真を意図して二枚ずつ左右にずらせて撮った写真が全部白ぼけた画面に灯の白い点々が写っているだけと分かったときは頭にきた。
指定の時刻にロープウエー出口の集合場所へ行くと、一人だけ来ていない人があった。それは二組の知り合い夫婦で来ている方だったが、高級カメラを持っていたので余程凝った写真を撮ろうとして、戻るのが遅れたのかと思った。添乗員の高橋さんがあちこち捜し回ったが見つからず、彼をきに記念撮影を済ませた。そして下りのロープウエーに乗る前に、またまた大捜索をしたり、マイクでの呼び出しを掛けたりしたがそれでも現れない。「もう上には居ないに違いない」として、バスのほうへ携帯電話で連絡を取ろうとするが、どういう訳か繋がらない。
その彼は早々と下山してバスで待っていた。彼は「17時集合の2分遅れで、あの場所に行ったら誰も居なかったので、もう下に下りてしまったのだと思った」と語った。40分後の集合を10分後と聞き違えたということになる。山上に上がってからわずか12分やそこらで記念写真も終えて下りてしまうということなど有りうるだろうか。それ位の時間なら解散などせずに待たされたはずである。彼は翌日、青函トンネルへ向かう列車の車中で「昨日は私のヘマで皆さんに大変ご迷惑を掛けました」と詫びながらお菓子を配っていた。
18:05、バスが出発して15分後にホテルに到着した。途中に五稜郭、辰巳の門跡を通過した。これは大火で焼け落ちた大門である。
昭和59年、季節風の吹き荒れる中で火災が発生し函館市の7割の家屋が消失するという大火となった。そして200人が焼け死ぬという大惨事となった。その人々を供養する慰霊塔が建てられている。
バスが海岸沿いを走ると烏賊釣り舟の漁火が12ほど見えた。多いときには高速道路の照明灯のように並ぶのだそうだ。
その直後に石川啄木の座像の横を通過した。「東海の小島の磯の白砂に我泣きぬれて蟹とたわむる」という短歌をこの地のこととして歌ったということであるが、他に「働けど働けど我が暮らし楽にならざり じっと手を見る」などと生活苦をうたった歌もある。しかし、テレビの“驚きものの木20世紀”によれば、啄木は先輩夫婦のところへ頻繁にせびりに来て、お金を手にするとすぐ芸者遊びに明け暮れたという。その話は昨年だったか、メール仲間の方々に紹介済みである。
北島三郎の“函館の女”の二番の歌詞に「灯さざめく松風町」という言葉が出てくるそうで、この町が昔は一番にぎやかだったところだったとか。
ルートの中に函館少年刑務所というのもあったが、ここに入っているのは少年ではなく、刑の軽い囚人とか。
市営競輪場は北海道唯一の競輪場である。
ホテル万惣は本館と別館が二つのフロアで繋がっている。このツアーの一行は別館に部屋が割り当てられていて、我々は3階の361号室。風呂は本館にあり24時間いつでも利用できる。ただし露天風呂は23時までという。
この日の夕食と翌日の朝食は1階のダイニングルームで摂った。今回のツアーでは他のホテルも含めて一度もバイキング形式の食事は出なかった。
夕食の席にホテルの支配人が来て挨拶をした。ダイニングルームに集まっていた三組のツアー客はすべて国際ロータリー名古屋の企画によるもので、“感動の函館夜景うめーぞ北海道”というツアーが39名、同じ内容で逆回りコースのツアーが46名、我々“どんとこい秋の東北”は添乗員を含めて25名のみ。本当は最少30名が揃わないと実行しないという案内がされていたけれど、よくもまあこんな人数で安くやってくれるものだ。ホテル側にも相当無理な要求がされている筈であるが、そこは商売人の支配人、にこやかな顔で次のように語った。
「今日のお客様は本当にラッキーな方達だと思いますよ。このところ、昨日もその前も雨やモヤで夜景が見られなかったのです。4月以降でも夜景が奇麗に見られたのは、トータルで60日位ですからね。・・・・」
同じような言い方を摩周湖へ行く度に聞かされる。私は2回、Hさんは3回行って毎回晴天に恵まれて見ているのだが、バスガイドは決まって、「なかな今日ほど奇麗に湖が見えるのは希です。お客様は本当に運がよい方々ですね」と。
函館の夜景は夏の間は8時過ぎにならないと見られないので、9時、10時に見てからホテルに着いて食事をすることになる。先に食事をしていたら、その日のうちに帰れるかどうか分からない。それほど周辺の道路が渋滞混乱するということである。
温泉マークに3本の湯煙が描かれているのは、食事前、寝る前、朝食前の3回入るものだという意味が込められているいう珍説を聞いた。ついでに入り方を更に詳しく教えてもらった。足から入るのは当然だが、どちらの足を先にするかというと、心臓から遠い右足が良いのだそうだ。
湯温は前回の北海道の各宿でも感じたが、熱好きな私にも少々熱すぎるほどだったし、深さもちょっと深すぎると感じた。翌日の十和田湖グリーンホテルはもっと深かったけれど、水面から20センチ位の所に一段あって入るのでまだよい。万惣の風呂は突然深い湯船になっているので、子供や酔った小柄な大人がうっかり入ったら足をとられて溺れかねないと感じるほどだった。
第2日(11/16)
ホテルのロビーでも朝市と称して海産物を並べていた。昨夜の支配人挨拶の中でも宣伝の話があって、駅前の朝市よりも2、3割は安いということだった。私は買わなかったけれど、一品だけ興味深い商品があった。“一夜干し烏賊”と包装紙に印刷してある脇に手書きの文字で“天日一夜干し”とある。夜に干して、星だか月だかの光に当てるのを“天日干し”と言うのだろうか。尤も、この場合は光は関係なく、風乾だろうけれど。
毛蟹が一番多く並べられていて、330g×2尾:\3,000,400g,\4,000,>500g:\6,500,700g:\6,800,5尾:\16、500といった値付けがされていた。タラバは1.6kg:\8,000。
この日は時期外れの雨だった。予報では一日中降り続くという。残念なことに、それはほぼ当たってしまった。
8時にホテルを出て、まずむかったのがトラピスチヌ修道院。これは女性の方が入っている修道院で、隣接した男性の修道院もある。そちらはトラピスト修道院という。フランス語で男女の違いをこのように言い換えるのだそうだ。私は学生のとき、ドイツ語で男性名詞・女性名詞というのがあって、どちらが主語になるかにより冠詞や同士など
<途中ながらメモ散逸につき以下省略>
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投稿日:2001/01/11 17:23 編集
場所(地域) 北海道
場所(詳細) 稚内、旭川、網走、帯広、根室、札幌、その他
時期 1960年8月14日〜26日
費用 約18,000円
ワンポイント
夜行列車内の車中泊半分、その他も深夜到着早朝出発の強行軍単独行
石松さんの旅行記執筆が佳境に入り、ますます分析が深く題材は古く溯っていく。火付け人として私が彼に対抗するには、思い切って古いことを書くしかない。そこで彼の最新作が北海道であったことに触発されたこともあり、35年前の北海道旅行の体験記を書くことにする。体裁としては日記風とするが、その後の体験(とくに4年後に出張で札幌周辺へ行ったこと)とか現時点からのコメントを随時交えることになろう。
8月14日
一昨日、トヨタでの夏季工場実習から帰った。清風寮で同室だった管野君(早大理工 学部経営工学科)と高橋君(徳島大工学部電気科)には、毎日北海道の様子を聞かされた。高橋君は実習に遅れて参加したが、その原因は北海道旅行だった。管野君が行ったのは 前年の夏ということだったが、どこが良かっただの、どこで見たあの景色は素晴らしいといった話題に私は入って行けなかった。
今まで「旅行など興味もない」というスタンスを取り続けて来た私だが、正直言って 面白くなかった。いや、悔しかった。
私だって、去年の夏休みには四国一周をしているし、今春は工場見学で18日間 中国地方から北九州を周り、ついでに九州全域を18日間さまよい歩いた経験がある。 4日間夜行に乗り続けたとか、丸2日間何も食べずに汽車とバスに乗っていたという体験など、そう誰でも真似ができないだろうと思っては見ても、そんな話題を持ち出せる雰囲気ではなかった。
高橋君の話の中で国鉄に延べ1万キロ乗ることを目標に頑張っている友人がいると聞いたので、「それなら私も北海道へ行き、一気に1万キロを達成してやろう」と考えた。九州のときに4250キロ乗っていたから、北海道へ行けばそんな記録は訳なく達成できる筈。
とは思っても手持ちの金はトヨタで貰った5千円足らずと、アルバイトで稼いだ金を合わせても1万円少々。均一周遊券8300円を買えば底をついてしまう。日頃、小遣いなどで親の世話にはなるまいという宗旨を一旦御破算にした。こういうとき、親父は何の頼りにもならない。藁(わら)を売った金など細々オフクロが貯めた虎の子を拝借した。
注:当時、瀬戸物の梱包の緩衝材として藁が使われていて、一束30〜50円で買いに来る業者がいた。
昨日は名古屋駅前まで自転車で行き、交通公社で上記周遊券、時刻表、それに簡単な旅行ガイドを入手した。ガイドの内容は旅先で読むつもりで、敢えて見なかった。
そして今日の昼直前に東海道本線の急行に乗ることで旅が始まった。持ち物は着替えの下着とハーフサイズカメラ(ペトリハーフ)、三脚、フィルム3本。春の九州行きと比べたらずっと身軽である。ひとつ変わり種は物理化学実験のデータとレポート用紙。これは夏休み中に仕上げなければいけないが、手付かずになっていていつも気になっている。 長距離列車の車中で書くつもりで入れた。(全くノータッチで持ち帰ることになる)
東京駅で山手線に乗り換え、上野で駅の外に出て食事をした。急行津軽が入るホームへ上っていったのが20時30分頃だった。古ぼけた列車が止まっていたが、これは自分と関係ない鈍行だろうと思いベンチに腰掛けガイドブックなどを見ていたが、出発10分前になっても列車が動かない。「これはおかしいぞ。ホームを間違えたのかな」と思って、客車の横に差し込んである行き先表示を見ると“急行津軽”と書いてあるのではないか!二三の車中を覗けば満席の様子。
慌てて最後部の客車まで走って乗り込み、機関車のつぎの客車まで歩いて空席を探した。立っている客が多くて通り抜けるのも難儀な客車もあれば、比較的空いているのもあった。しかし、いずれも空席など全くないということでは同じだった。「13時間も立って行くことになるのか」と予想し、その苦難に戦慄を覚えた。
始発駅で、こんなに早くから列車が入るということを知らなかった。中央線を利用したことのない私は始発列車に乗るという経験が殆どなかった。
急行など特別料金の必要な列車は新しく清潔な車両に違いないという先入観があった。名古屋駅で急行に乗るときホームの両側に列車が止まっていて、自分が乗る急行は清潔感があり、他方は鈍行の汚い汽車だった。直前のそのイメージが余りにも強く作用した。
ただ、列車の到着・乗車開始時刻を知らなかったことの方が決定的なミスだろう。私がホームに着いてからは、後から来る人影など殆ど見なかったのだから。
私はすっかり諦めて、荷物を網棚に上げた。そして背合わせの席の横の木枠に身を任せ目を閉じた。
その時である。窓の外から声がかかった。「学生さん!そこの席に掛けていて下さい。多分、空きますから」。
ラッキー!私は何という幸せな星の下に生まれたことか。お釈迦さま、イエス樣、マホメットさま、そして八百万の神々が見守っていてくれるのではないかとさえ感じた。
それは札幌で先生をしている若夫婦のために、弟が2時間も前から頑張って取った席で、余分に荷物を置いてあった席を譲ってやろうということだった。
私はカッターシャツ姿であったが、学帽を被っていた。大学入学の年の夏まで、つまり髪が伸びるまで使った帽子であるが、その後は放ってあった。トヨタの実習に行くとき、「学帽を着用するように」という事前連絡があって、埃とカビにまみれた臭い帽子を探し出してきた。それが実習中、「学生さん!」「学生さん!」と親しまれ親切にされることに繋がり、旅行にも被って来る気になったのである。
注:今では学帽など応援団の団長くらいしか被らないだろうが、当時、早稲田と慶應の学生はなぜか高学年になっても着用している人が多かった。名大では入学後、精々半年までしか使う者がいなかった。
夜行列車に翌日の昼近くまで乗り続けるのは、席に着けても楽なことではなかった。とくに、新婚さんが寄り添い、重なり合って眠り込む姿を目の前にすることは、若い身にとって残酷でさえあった。
8月15日
朝方、七戸の近くで踏切事故があり、少々遅れて青森駅に到着。桟橋に待機中の連絡船十和田丸に皆が先を争って乗り込む。津軽海峡の奥まった中にある青森と函館は108〓もあり、4時間半の船旅となる。港を離れて行くと、町並みが見えなくなる頃、高い煙突の根元が水平線に消えて、あとは海中に沈んでいくような見え方をする。地球の丸いことを実感する瞬間だった。
函館からは“急行まりも”が連絡している。出発するとすぐ、湿地帯の中を走ることになる。これが大沼国立公園の一角である。車窓から見る駒ケ岳は記念切手で見慣れたもの。
隣り合わせた人々から声が掛る。「学生さんですね」「お一人で旅行ですか」「どちらに行きますか」。最後の質問が一番難しい。まだ私はどこへ行くのか決めてない。
私は均一周遊券を持っているので、国鉄の急行以下と国鉄バスには無制限に乗れる。金欠旅行では宿代が一番痛いので、なるべく夜行を利用する。これは延べ乗車距離が伸びるという副産物も伴い都合がよい。
九州へ行ったときは春休みで空いている学生寮に1泊50円とか、夜具使用料80円で泊まり、夜行にも連続して4夜も乗ったことを話した。級友と二人で四国旅行した時は 京都の親戚で泊まり、高松の友人宅でも泊まった。その友人は旅行中でいなかったし、行くことを事前に知らせてもなかったのに母親が心配して半ば無理やり泊まらされてしまった。高知へ着いたら3ヵ月前に文通を始め、数回しかやりとりしてない女の子の母親が迎えに来ていて勤務先の旅館に部屋を取ってあるといって連行されるように案内されてしまった。皐月の見事な庭園がある三翆園という日本旅館で、数年前には天皇陛下がお泊まりになった旅館と聞いて驚いた。場違いもいいところ。1泊2食付き550円 以上の金を払ったことがない私には法外な1500円(食事別)が最低価格だった。食事は個室のような食堂で、ついぞ口にしたことのない料理が毎回出された。
我々は1泊のみで西へ向かい宇和島から別府に渡る予定だったが、「高知にも良い所があるから、ゆっくりして行きなさい。もう一泊すれば娘も休みになるから案内できます」と勧められ、その気になった。結局2人の2泊分を全部面倒見てもらうことになり、 嬉しいというより心の負担になった。もっとも、自分たちで支払ったら、即刻旅を中断して帰らなければならないような懐具合だったが。
そんな話を面白そうに聞いていた若い女性は帯広に帰省するところだったが、最後の話の頃にはめっきりよそよそしくなった。こんな学生の話相手をしていたら、「泊めてくれ」と言われかねないと感じたのだろう。その娘さんは私を大学に入りたての1年生と思って坊や扱いの話しぶりだった。
注:高知から後のことを追記する。
鉄道の終点窪川まで行き、険しい山中の道を4時間も乗る国鉄バスに繋ぎ江川崎 から再び鉄道に乗り換えて宇和島に到着。ここを22時に出発して別府に渡る船が 台風接近で欠航し、翌朝も出なかった。次は夜の便までないと聞き、旅行を中断して帰ることになった。
現在は窪川、江川崎間も鉄道ができているが、当時は片側が切り立った崖、もう
一方は谷底になって遥か下を川が流れているという細い砂利道続きだった。 バスの運転手は急坂に差し掛かる度にブレーキテストをしながら慎重にハンドル操作して いた。道幅は乗用車でもすり違いが難しい。100メートル置き位に頻繁にすり違いの場所が設けてあるが、大型バスでは本当にぎりぎりの幅しかない。川寄り最前列の席に座った私は、道の端より完全に谷側に乗り出しているという状況に肝を潰した。この様な道路状況は決して珍しくなく、日本全国どこでも山道はそんなものだった。
札幌まで停車毎に駅名が話題になった。北海道は難読駅、珍名駅の宝庫である。
長万部、倶知安などは本土でも有名になっている。
21時札幌着。すぐ“急行利尻”のホームに行き乗り込んだ。明朝6時、稚内まで直行。
8月16日
明るくなり始め、窓の外に目をやると未開の原野という感じの平原が広がり、真っ直ぐに線路だけが敷設してあるといった光景だった。途中の駅といえば1車両分位の長さだけ乗り口の高さまで鉄骨が組んであるのみ。殆ど乗り降りがない。降りる人がいても、そこからどこまで行ったら人家があるのだろうと不安になる程。
執着稚内ではアメリカ人の軍人が目立った。間近にソ連を控え国防の要になっている ことをひしひしと感じる。
うらぶれた田舎町で見るべき観光資源もなく、しゃれた店もなさそう。私はバスでノシャップ岬を訪れた。海岸では一家総出で昆布採りをしている光景がみられた。
観光客らしき人もいない中で、私など極めて異質な存在であるが、そんなものに目を向ける暇もないように彼等は必死に作業をしていた。短い夏は生活の糧の最大の稼ぎどきなのだ。
海岸近くの家々は窓ガラスの面積が内地と変わらない感じで、これで冬の寒気を
凌げるだろうかと疑問に感じた。
利尻島と礼文島は目と鼻の先。しかし、そこまで行けば1日丸々余分にかかる。
北海道本島の北端という意味では宗谷岬の方がより北に当たるが、小さな灯台があるだけと聞く。そのために半日をかけるのも馬鹿らしいと感じ、早々に稚内を離れることにした。
日の入り直前に旭川に到着。 初めての宿は改札口付近で客引きをしていた番頭の誘いで駅に最も近い旅館にした。部屋ではやぐらこたつに炭火がたっぷり起こされ、寝巻きの他に分厚い丹前まで準備してあった。
初めて戸外に出て身をもって感じた北海道を一口で表現すると、「春夏秋の3シーズンと初冬までを1日のうちに味わえる土地」と言うことになろうか。
稚内でも昼近くなると、全財産を背負って歩く私の額には汗が流れ、「北海道も結構 暑いじゃないか」という印象を与えた。ただし、日陰に入れば汗はすっと引いて肌寒さ さえ感じた。海岸にはタンポポが咲いていたし、旭川に近づくとコスモスの花が咲き 乱れていた。そして旅館の部屋のこの防寒対応である。確かに丹前を着こんでも違和感のない夜となった。
8月17日
旭川郊外のアイヌ部落へ出掛けた。確かにアイヌ人と分かる風貌の男が熊の木彫りを 実演しながら売っている。私は、何軒か同じような店がある中で一番人だかりが多い店に引き寄せられるように入った。
店主は東京に住んだこともあるということで、東京からの客と知ると地名をいろいろ 言って親近感を醸し出すのが手のようだ。そしてそれぞれの客のポケットマネーにふさわしそうな値の品を勧めている。
「これトンチカムイという人形だよ。これを持っているだけで幸せになれるという言い伝えがある。男女二つ揃えたら、もう絶対だね」、「この熊なんかどう?こちらと殆ど 同じ大きさだけど値段は半分だよ。今日は東京の人達だから特別だ」。
「僕、名古屋だけど安くしないの?こちらの熊、もう一声2百円でいいけど負けてくれない?」、「それはもう負けられないよ。こちらの1800円のと比べてご覧よ。全然 違うだろう。これは売約済みだけど旅館の主人が買ってくれている。8千円でね」。
私の選んだのは木の台の上に親子の熊が彫ってあり、似たような大きさのものが駅前の土産物屋で2万円で並んでいた。それが2千円で買えるという。彼の言葉を信用して買い上げ鉄道便で送って貰うことにした。
途端に親父の言葉遣いが変わった。「この学生さん、ブルジョアだ。しっかり梱包して送るからね」と言って住所、氏名を書いた紙を手渡してくれた。
注:旅行から帰って2週間たっても届かないので、督促の手紙を出したら達筆の葉書で謝罪と手配済みの連絡をくれた。その翌日に蟹江駅から通知があり5kmの道を 自転車で受け取りに行った。
4年後の夏、日本ペイントの塗装調査隊に同行する形で札幌、旭川周辺へ出張する機会があり、その店を訪ねたら、川上○○さんという主人は1年前に亡くなったと いうことで奥さんが店に出ていた。土産品の値は全般に高くなっていたが壁掛け (熊の顔;3千円)と大熊(7千円)を買った。
川上さんと掛け合って(値切れないまま)買ったときのことを話したら喜んで人形をくれた(それがトンチカムイだった)。小学校の上級生と見える息子にも「この方お父さんを知っているんだって」と声を掛けていた。その子が小さいときに川上さんと一緒に撮った写真が寮にあったので、後日送った。奥さんは近く名古屋のデパートの物産展に行くので案内状を送るということだったが、その後連絡はなかった。私もしばらく注意していたが、それと思われる物産展が開催される様子はなかった。
駅へ戻る路面電車は超満員だった。人々は「暑い!暑い!」と訴え、「トルコ風呂(今は禁止用語)に入っているようだ!」という声も聞かれた。私は猛暑の本場で
鍛えられているから、「それほど騒ぎ立てることもないのに」と思った。苦にならなかったのは、他ごとに気を取られたせいもある。
目の前の席に高校生かと思われる清楚な女性がいて、その周りは後光が差したように輝いて見えた。正に現代のかぐや姫という感じ。そしてそこから爽やかな微風が舞い上がってくるようにも感じられた。うっとり見惚れていると、彼女が突然私の方に顔を向けにっこりした。「まさか、俺に?!」。私の後ろに誰か知人でも見つけたのかと振り向いたが違うようだ。その後の彼女は下を向き、暫くするとまた見ないではいられないかのように私を見て微笑んだ。そんな仕種が三度、四度とくり返され、私は喜びより「この娘ちょっと(頭が)おかしいんじゃないの!」と感じて、気味悪くなってしまった。
顔に煤でもついているかと駅の洗面所で確認したがそうでもなかった。学帽を被っている姿が珍しく、「大の男が幼稚園児みたい!」と思って、ああいう表情をしたのではないか。いずれにしても、私にとってはモナリザの微笑以上に魔訶不思議な微笑だった。
旭川の次に層雲峡を訪れることにした。上川まで汽車で行きバスに乗った。片道1時間余りで切り立った断崖の渓谷に入る。普通のバスでは窓から首を出さなければ全貌が見られないということで、屋根の上までガラス張りの特製車両が使われている。そして終点は温泉地となっているが、旅館・ホテルの類いはなく公衆温泉とささやかな土産物店のみ だった。 途中ですれ違う車は丸太を満載したトラックの多さが目立った。これは洞爺丸が沈没して数千人の死者が出た、あの台風のときに倒れた木を運び出しているのだそうだ。あれから何年経ったのか正確には覚えていないが、これからまだ10年運んでも運び切れないとか。そうなったら最早材木には使えない。
再び上川に戻り、網走行きの急行に乗った。通路を挟んだ隣の席には女性のグループがいて、賑やかである。私は誰かと話がしたくなっていたので、暫く彼女等の様子を伺った。話に夢中になっているときでは無視されるのが関の山、退屈して眠ってしまってからでは迷惑だろう。それで少し、口数が減り、あくびをするのが出始めたところで声を掛けた。「トランプでもしませんか!」。
意外なところからの呼びかけで驚いた様子だったが、すぐ一人が答えた。「ええ、しましょう。ここの席一つ空いているから、こちらへどうぞ」。
ババ抜きとか、ポーカーとか誰でもやれそうな遊びをしてから、「皆さん、トランプでやれる手品を知っていますか」と尋ね、幾つかを披露した。ただ面白がる人、タネが判るまでしつこく繰り返しを求める人、特別な仕掛けでもあるのではないかと詮索する人などまちまちながら、和やかな雰囲気が醸し出されて行った。
その中のリーダー格と思われる人が言った。「一休みしてお話ししませんか?」、皆も賛同した。
「ところで学生さんですよね。高3ですか」、「えっ!大学4年です。来春卒業するとなかなか遠くへ旅行などできないと思って愛知県から来ているんですよ」。
彼女等は千葉県の洋裁学校から20人余りの団体で来ているということだった。
そして昨日、車中で行き合って話した人が随分老けた感じだったのに、高校生だったとか。それで少しサバを読んで若めに歳を聞いてみたのだそうだ。
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留辺蘂(るべしべ)が近づくと彼女等は下車の準備を始めた。そして、一人が読みかけの週刊平凡をパラパラとめくって鞄に入れようとした時、今週の運勢欄がちらっと見えた。
「ちょっと待って!そこ読ませてくれませんか」と手に取り、8月生まれの欄をそっと黙読した。
「何月生まれですか」という問いに私が答えないでいると、「この人8月生まれだわ。視線で分かるもの」。それを信じて質問の主が読み始めた。そして尋ねた。「本当に8月ですか」「そうです」と答えると、爆発したように笑い始めた。他の二人もじっくり読んで頷き、同じように笑った。
私は彼女らの名前を知らずややこしいから、以後質問した人をアリス(略称A)、視線を読んだリーダー格をブレネリ(B)、そして私が内心一番気に入った娘さんをクレメンタイン(C)ということにしよう。
その後、話題が変わっても、一人でくすくすと笑い続けたのがAだった。彼女は下車する間際に言った。「実は私も8月生まれなのよ」。
そんなに何が可笑しかったのか。"ロマンスが芽生え、最良の週となるでしょう。旅行も大丈夫です。金銭的な問題も解消します。・・"といった具合で万事結構この上なしという見立てだったのである。
留辺蘂を過ぎる頃は真っ暗となった。車内の客はいつか、遠く離れた席の中年男と私の二人だけになっていた。
終着網走は最果ての町、"網走番外地"監獄の町で名が知られ、よいイメージはない。22時30分着は最終便でもあった。私は高橋宏さんの話で駅のベンチで寝たということだったので、宿代が浮かせると読んでいたのだが、客引きのオッサンによれば「駅は閉鎖されるし、寒くてとても寝られたものでないですよ」とのこと。純真な田舎者はすぐ説得されて後ろに付いていくことになった。
私は最初彼の誘いに「明日は出発が早いので始発と同時に乗ります。だから駅で寝た方がいいのです」などとも言って断った。そんな言葉にひるむ彼ではなく、「いくら早いお発ちでも起こして差し上げますよ」の一言で切り返された。
網走館という新築間もない宿で駅からも近い。歩きながら「北海道は涼しいでしょう」と聞くから、「いえ、昼間は結構暑いと感じましたよ」と答えたら、「どこから来なさったか」と重ねて聞く。
「名古屋です。愛知県の名古屋から来ました」というと、「それじゃあ、ずっとこちらは涼しいですよ。私も若いときは名古屋にいましたが、それは酷い暑さでしたからね」。私は言葉に詰まった。彼は一人で続けた「名古屋には、御園座がありましたね」。
夕食は抜き、朝食も頼まず素泊りである。入浴を済ますと直ぐに床に就き、深い眠りに落ちた。
8月18日
朝方おびただしい数の鳥が上空を飛びながら鳴く声に気付いた。カーカーともワーワーとも聞こえた。その騒ぎが遠ざかると共に私は再び眠り込んだ。
「お客さん、お時間ですよ!」という声で時計に目をやると5時。顔を洗い、歯を磨くとすぐ玄関に出て、支払いをしながら尋ねた。「先ほどうるさく鳴いていた鳥は何ですか。カラスのようでしたが」、「ええ、カラスですよ」。
呼び起こされてから30分後には車中の人になっていた。原生花園で知られる沿岸の草原を走る車窓からは、記念切手で見られるような鮮やかな橙色をした花が見られない。時期的に遅く、寂しげな色の秋の花が支配的になっているのだろう。川湯で降りて、ここから摩周湖とか阿寒湖へバスで行くことにしていた。駅の外には川湯温泉行きのバスが待っていて、私にも乗らないかと車掌が声を掛けてくれた。
「朝っぱらから何を言っているんだ」と叫んだ訳ではないが、温泉など入る気がないので無関係と思い見送ったのだが、すぐ連絡しているはずのバスが来ない。
改めて時刻表を見直したら、どうしたことか。摩周湖方面へのバスは川湯温泉から出ることになっていた。せっかく早く起きながら2時間もタイムロスしてしまった。
二つの湖を周るバスは相当のお古で、未舗装の曲がりくねった道を喘ぎながらヨタヨタ走った。それよりもっと酷いのがガイドさんの歌だった。マリモの歌を3番まで歌い、さらに歌唱指導をすると云って一節ずつ繰り返しながら乗客に続かせようとした。そのメロディーがいつも同じところで狂っていた。声も良くないが、いわゆる音痴ではなさそう。ただ最初に間違って覚えたものと思われる。全く迷惑に感じたのは私だけでないだろう。誰も声を出そうとしなかったことに抗議の気持が現れていた。
天候はすっきりした快晴とまでは行かなかったが、夏の天気としては恵まれた方だろう。摩周湖の第3展望台、第1展望台のいずれでも向こう岸までよく見えた。とくに山陰の映る岸近くの水の色が素晴らしかった。濃いヒスイ色で、吸い込まれてしまいそうという表現がオーバーでない感動を覚えた。
それに引き換え、次に訪れた阿寒湖の俗っぽさにはほとほと呆れた。湖岸一杯まで土産物の店が軒を連ね、湖の上は手漕ぎボートがラッシュ状態、更にはモーターボートの爆音まで満ち満ちていた。そこで一瞬の内に私はここに留まることを取りやめ、バスの発着所に足を向けた。
釧路への道がまた酷かった。「日本には道路がない。あるのは道路予定地のみである」と米国からの使節団が報告したと聞くが、私から見ても「これが道路予定地という表現にぴったりの土地だ」と感じる状況が延々と続いた。乾いた赤土のホコリがすごい。満席のバスは北海道といえども窓を閉めれば蒸し暑い。それでもとても開けてはおれない土ほこりである。私はロシア歌謡“道”の一節を思い出した。
おお、道よ 立つ埃
寒さに震え 茂るプーリャン
明日をも我知れず
いつ荒れ野の露と消えん
埃は畑に 野辺に 山に
辺りは火の海 弾は飛ぶ
このたび再度、この旅行記を編集しなおしていて、この歌を聞くことができるホームページを見つけた。
http://www.fukaura-h.ed.jp/~bunbun/okera/mawa/michi_rosia.htm
道(ロシア/Em)
作詞 オシャーニン
作曲 ノヴィコフ (訳詞:中央合唱団)
1 ■おお道よ 立つほこり 寒さに震え 茂るブーリャン明日をもわれ知らず いつ荒れ野の露と消えんほこりは畑に 野辺に 山に あたりは火の海 弾丸(たま)は飛ぶ
2 ■おお道よ 立つほこり 寒さに震え 茂るブーリャンカラスは上に舞い 友はブーリャンの中に眠るけれどなお道は ほこり込めて 炎果てもなく 燃え上がる
3 ■おお道よ 立つほこり 寒さに震え 茂るブーリャン林に陽は昇る 故郷とおく母ぞ思う果てしなき道に 山に 畑に 母は思い込め われを待つ
4 ■おお道よ 立つほこり 寒さに震え 茂るブーリャンおお 友よ 思い出さん ほこりの道 忘れられぬ おお
1946年に発表された歌。戦争の真実を映し出した傑作と言われる。戦争の悲惨さと失った友への音の一つ一つににじみ出るような作品。
コロポcheck(2003/07/27)
暫く行くと、「これが北海道だ!」という光景に出会った。
道路の両側が牧場になっていて簡単な柵はあるのだが、その隙間から出てきた牛が何頭も路上をゆっくり歩いている。バスが近づき警笛をならしても知らぬ顔。子牛が横から飛び出してきてバスの直前に止まり、珍しそうにこちらを覗き込むというようなシーンが見られた。数年前に中村メイコさんが歌った"田舎のバス "の歌詞はこんな体験をした人でないと思いつかないだろうと思った。
「田舎のバス」
三木鶏郎作詞・作曲
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/inakanobasu.html
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田舎のバスは おんぼろ車(ぐるま)
タイヤはつぎだらけ 窓は閉まらない
それでもお客さん 我慢をしているよ
それは私が 美人だから
田舎のバスは おんぼろ車
デコボコ道を ガタゴト走る
2.
田舎のバスは 牛が邪魔っけ
どかさにゃ通らない 細い道
急ぎのお客さん ブーブー言ってるが
それは私の せいじゃない
田舎のバスは おんぼろ車
デコボコ道を ガタゴト走る
3.
田舎のバスは 便利なバスよ
どこでも乗せる どこでもおろす
たのまれものも とどけるものも
みんな私が してあげる
田舎のバスは おんぼろ車
デコボコ道を ガタゴト走る
4.
田舎のバスは のんきなバスよ
タイヤはパンク エンジン動かない
そのときゃ馬に ひかせて走る
それは私の アイデアよ
田舎のバスは おんぼろ車
デコボコ道を ガタゴト走る
日の入り直前に釧路駅に着いた。その手前は広い平原が荒れ地のまま放置されていた。果てしなく雑草の繁る平地の向こうに太陽が沈んでいく。夕焼けが未だかつて見たことがないほど美しい。
注:「なぜ、この平原を開墾して作物を栽培しないのか」と思ったが、あとで車中で隣り合わせた土地の方と話したら濃霧が頻繁に発生するために農耕には適しないのだそうだ。また、釧路は夕焼けの美しさで有名な土地であることが帰宅後に見た本に書かれていた。
時刻表で検討することもせず、たまたま次に来たのが函館行きの急行だったので乗車した。ちょうど満席程度に混んでいた客車の中が次第に空いてきて、21時を過ぎる頃にはガラ空きの状態になった。私は4人分のボックスを独り占めにして眠った。
2,3時間経った頃だろうか、ふと目覚めるとどこかの駅に停車中だった。再び目を閉じて眠りに落ちる寸前、ざわざわと人の声がして通路を女性客が通りかかった。それが何と、昨日のA,B,C三人だった。
「おい!君たちじゃないか」の声に振り向いた彼女等は「まあ、また一緒になったのね〜!」「釧路から乗ったの? 駅で気付かなかったわ」と言って、私の前と横の席に座り込んだ。
三人は少し長い停車時間を利用して駅の売店まで飲み物を求めに行って、席に戻るところだった。ホームが短くて、自分たちの車両の乗降口から出入りできないために2,3車両の通路を通って往復していたのである。
彼女等は留辺蘂から屈斜路湖を経て、あとは私と同じく二つの湖を見て来たのだった。摩周湖の水の色、俗化した阿寒湖の空しさ、釧路郊外の夕焼けの素晴らしさ等々お互いの感じたことを話し、共感して30分余りが過ぎた。
Bは「私たちが戻らないので皆が心配しているんじゃないかしら。私ちょっと行って知らせて来るわね」と言って立ち上がった。Aが「また戻っておいでよ」、B「ええ、直ぐに」ということだったが、30分経っても姿を見せない。
C「どうしたのかしら。私見てくるわ。呼んでくる」、A「あなたも来るのよ」、C「勿論よ」。ご丁寧にハンカチまで席に残して行ったCさんだったが、それっきりだった。 こうして、"今週中にロマンスが芽生える予定の8月生まれ"二人だけとなってしまった。Aが若干私に関心がありそうな口ぶりであることを察して、B,Cは気を利かせたのだろうか。そういう配慮なら、Cさんが残るように私はもう少し自分の気持も伝わるような話し方をすべきだった。
Cさんは背が適度に高くて、長い髪を束ねた顔立ちがイタリア映画"芽生え"でデビューし人気上昇中のジャクリーヌ・ササールに似ていると私は感じていた。そっくりとは思わないが、彼女が日本人なら、こんな顔つきで性格的にも、この程度に控えめな態度をとるだろうということだ。
私は若い女性とのデートなど一度しか経験がなかったし、豊富な話題も持ち合わせていない。こういう時に何を話したら良いか迷ってしまう。
四国と九州への旅行の話はB,Cがいるときに済んでいるし、村で七宝焼という焼き物を作っているとか、その特徴を説明したりした。席の上に置いてあった名古屋の歌声喫茶"コーラス"の歌集を彼女が見つけて、しばらく黙って見ていてくれたときなど新しい話題を提供しなくてよくほっとした。
「素的な歌が一杯あるわね。でも今頃歌ったら寝ている人に怒られてしまうわね」
そうだ歌でも歌っていたら何時間だって場がもてる。深夜であることが、そして少人数ながら他の乗客も乗り合わせていることが残念だった。
それから午前3時過ぎまで、家族のこと、家業のことなど身上調査的な質問を一杯されてしまった。彼女はまだ元気そうだったが、前夜もろくに睡眠を取っていない私は、目がしょぼしょぼして受け答えも虚ろになってきた。やっと彼女が腰を上げてくれたとき私は心の中で「バンザイ!」と叫んだ。途中、「私、朝帰りしようかしら」と呟いたときは、明日の旅程がどうなるのか、終日駅のベンチでうたた寝して疲れを癒さなければならないのかと気を揉んだものである。
そんな私だったが札幌到着の手前で奇跡的に目が醒めた。私は手荷物を携えて3両先の車両へ行き、三人に挨拶した。このときAが私の写真を撮り、あとで送るから名前と住所を教えてくれと言った。私は昨年夏に作って級友など数人に自慢げに渡した他は使ったことがない名刺を取り出した。そのときAは、「太田さんとおっしゃるのね。わたし高橋と申します」と名乗った。注:9月になってから写真が届けられた。「とても自然に撮れているでしょう」というコメントつきで。千葉県香取郡○○町の高橋紀〇〇さんといい、昭和15年8月4日生まれ。私とは2年と3日違い。この昭和15年は皇紀2600年に当たるということでこの年に生まれた人には"紀"という字が頻繁に使われている。紀子、由紀子、紀男、由紀夫、・・・・。
8月19日
雪祭りの会場になる大通り公園へ歩いていった。洋裁学校の連中はバスで来て記念撮影をしていた。つぎに北大へ行き、構内を通ってポプラ並木の方へ抜けていくと、またまた前方に彼女等の一行が歩いている。スケジュールを聞いたこともなく、私が追いかけている訳でもないが、大体有名な場所を目指すとこんなことになる。大通り公園を見た感想は、"名古屋のエンゼルパーク周辺とそっくり"だった。ここのテレビ塔の設計者が名古屋のものと同じ人で似た格好をしていること、公園全体の広さ、木々の繁り方は進んでいるが、エンゼルパークも何年かしたらきっとこんな風になるだろうと予想する。その一角にある時計台は歌にまで歌われ知名度は高いが、こんなに小さく何でもない建物かという感じだった。
足の向くまま歩いていたら、周りには観光客がいなくなった。苗穂の操車場のそばを通って札幌駅に戻ると、ここで級友の大矢光雄、大場幸満の二人に出会った。彼らは支笏湖へ行く予定だったが、風邪気味で体調がよくない大場君は、「取りやめて宿で静養する」と言い出した。そこで大矢君と支笏湖へ同行した。かなり大きな湖で少しモヤが掛かっていたこともあり向こう岸までは見えず海辺に立つ感じだった。人工的な観光施設、土産物の店など何もない。そんなものは興味がないが、わざわざ来る価値もないような印象で早々に引き揚げることにした。札幌に戻る彼と別れ、私は苫小牧に向かった。 ところがここからの列車の本数が極めて少ない。どこ行きでもよいから先に来るのに乗ろうと考えたが、2時間後の函館方面行きが最も早く、その他の列車を待ったら半日仕事になってしまう。国鉄バスも検討したが、何でもない近くの町で終点となるものが一日に2,3往復あるのみだった。
虻田まで行き洞爺湖温泉に泊まることになった。髭の濃い男が洒落た名前の旅館に誘うので応じたら「私はあと一人お客様を案内しますので、先に行ってください」と言われた。そして大きい方のカバンを彼は受け取った。
「この道を真っ直ぐ行くと左側にあります」ということだったが、温泉街の外れ近くになっても、その旅館が見えてこない。私は不安になった。「あの男は本当に旅館の客引きなのか。そんな旅館は実在するのだろうか」。
地元の人と思われる人に尋ねたら、すぐ近くに旅館は確かにあった。玄関に入り、「駅前で髭の濃い方に誘われて来たのですが」と告げると女中さんは「髭が濃い?」と首を傾げた。私は「やっぱりやられた!あいつに荷物を持ち逃げされる!」と心で叫んだ。しかし、声まで出さなかったので恥をかかずに済んだ。
「きっと、木村さんだね。さあ、どうぞお上がりください」と促されて、2階の部屋に通された。そして程なく、カバンが届けられた。もし、あれが盗られたら、例のレポートの基礎データも周遊券も、持ち金の大部分も失うところだった。そして手元の小さいバッグには汚れた下着位しか入っていなかった。
そんな私の心の中だけでのトラブルで神経質になったからではない。女中さんはドアのノックなど形式的で、「どうぞ」の声も確認せずに開ける人が多いので、あまり無様な格好を見られないようにロックしておいた。
案の定、女中さんはそんな取っ手の引き方をして戸惑ったらしい。「もうお休みでしたか。大分お疲れのようですね。すぐお床を準備しますからね」と言った。そして明日の予定を尋ねたので、すぐここを発つと伝えた。彼女は「羊蹄山など行かれたらどうですか。次の日には私の娘も帰って来ます」という。女手ひとつで育て、東京の大学(国立音楽大学)に行かせているのだそうだ。その女中さんもよく見るとなかなかの美人で、知性を感じさせる人だった。私の知る範囲の女優でたとえるなら新珠三千代さん。「きっと、娘さんもこんな感じかな。ちょっと会って見たいな」と心が動いた。
8月20日
しかし、当初の考え通り、早朝に湖畔を離れ札幌に戻って、次は東の端、根室を目指すことにした。予定の急行まりもを数時間、ここで待つより小樽まで行って乗った方が乗車距離を伸ばせると思い、そうした。だから小樽には行ったがホームで牛乳を飲んだだけのこと。札幌、滝川、帯広を経由して延々16時間乗り続けた。前後に機関車をつけて登るという狩勝峠も寝ている間のこと、何の記憶もない。こんなに時間がかかるのは距離だけの問題ではない。釧路から先は急行でなくなり、各駅停車になるからだった。 長旅の疲れは無いと言えばウソになるが、夜行列車の音や振動が子守歌のように快く、安眠・熟睡できるように体が順応して辛いとは感じない。
根室から納沙布岬までは、数台のバスが未舗装路を埃まみれになりながら走るというお決まりパターン。途中で見た草花は網走の原生花園より奇麗に感じた。
岬にあるのは灯台のみ。そこを訪れた客の名前が短い感想文と共に書かれている。それによると、今日、ひょっとしたら同じバスで来たかも知れない名古屋の人もいるようだ。
灯台から見下ろす海はどんよりした天気のためもあろうが、グレーがかった陰気な感じの色で、冬景色の中の海を連想させた。 バスと鈍行列車で帯広にたどり着くと23時になった。ここでも最初に話しかけて来た番頭さんの旅館に泊まることにした。
8月21日
釧路発6時の列車で広尾(今は広尾線廃線)へ行き、バスで襟裳岬に向かった。
海岸線は岩場続きで、ここに道路を切り拓くには莫大な資金を要したに違いない。
"黄金道路"とは黄金をバラ撒くように金を掛けて造ったことから付けた名称であるとのこと。
岬のすぐ手前に"百人浜"という地名がある。「昔、この近くで難破した大きな船がありました。乗組員たちは何とか浜辺まで泳ぎ着いたものの飢えと寒さのため、妻子の名を呼び叫びながら100名全員が亡くなったのでございます」というバスガイドさんの説明を聞いて、全員亡くなったにしては状況描写が詳しすぎると感じた。 "講釈師、見て来たようなウソを言い"の講釈師が現代ではバスガイドということになる。
岬の突端に立つと、バスの中では無風に近い日和と感じたこの日でも相当に強い風が吹き上げていた。一番高い丘の上には気象観測所があり、二つのレーダー装置が備えられているが、その一つは天蓋が吹き飛ばされていた。ここでは昨年9月の伊勢湾台風の時に秒速60メートルの風を記録し、その瞬間にこうなったのだそうだ。
海からの風を遮る小山の裏に廻ると馬がいた。手綱の先が杭に縛ってある親馬とフリーの子馬である。私は馬と親しんだことがないが、一緒に写真を撮ろうと考え三脚を立ててセルフタイマーをセットした。ちょうどよい位置に収まると思って馬の側に寄ると後ろ向きになってしまったりして、なかなかウマく撮れない。繰り返し繰り返し何枚もやり直した。
帰りは西側の海岸線を通り様似(さまに)経由で札幌に戻った。
8月22日
札幌から夜行で函館に朝到着。その寸前、車内でアナウンスがあった。
「間もなく終着函館に到着します。この列車と連絡する青函連絡船は8時20分発の第○十和田丸でございますが、台風接近のため函館駅には昨夜から大勢のお客様がお待ちですので、この列車にお乗りの皆様にはご利用頂けません。幸い台風の影響は無くなりましたので、8時20分発は予定通り運航可能と思われます。その場合は続いて30分後に臨時の便が出る見込みです。繰り返し、お伝えします。間もなく・・・・」。
これを聞きながら、午前中に青森に渡れないのかと思ったり、臨時便で渡れるのかと思ったりしたが、到着すると駅のアナウンスでは「ただ今、4千人のお客様が昨夜からお待ちです。急行まりもでご到着のお客様は、8時20分発の定期便はもとより続いて増便する連絡船にもご乗船いただけません。次の便は、午後3時30分の第○洞爺丸でございます」と変わっていた。
予定外の時間がたっぷりできたが、旅行を切り上げ帰路に就いた私にはもうどこも見たいと感じない。私は函館の町の中で時間潰しをすることにした。駅を出ると、すぐ前に二つのデパートがあった。彩華デパートと森屋百貨店。
両方に入ってブラついたが、規模が小さく時間をかけて見るようなものはない。店名のイメージ通り、彩華デパートの方が近代的な感じのレイアウトや飾り付けがしてあると感じた。こちらは映画館が併設してあった。とくに興味があるタイトルではなかったが、ここで過ごすことにした。そして館内では暗さが幸いして、睡眠不足が解消できた。
連絡船は超満員。船室に入り切れなくて甲板で過ごした。木のベンチに座りぼんやりしているとまた眠くなったが、もうちょっとで眠れるところで修道院の女三人が近くでお喋りを始めた。うるさいことこの上なし。修道女も三人揃えばカシマしく、全く俗人と変わらない。
青森駅前の旅館は民宿風で、ただの民家に迷い込んだと錯覚しそう。玄関に入ると左の部屋が帳場になっているが、家族の居間を兼ねている。小学生の男の子が二人いて、一方は寝そべって漫画を読んでいる。もう一人は何か悪戯をしてお母ちゃんに叱られている。そんな生活の生々しいやり取りが、お客の到着した気配が伝わっても全然変わらない。歯の浮くようなもてなし言葉を聞くより、私には心地よい。おまけに純粋の東北弁である。猫の鳴き声まで訛って聞こえて可笑しかった。
そして本土に戻り一番痛切に感じたことは、蒸し暑さだった。入浴中に夜具の準備をしてもらったら蚊帳まで吊ってあった。旅館に泊まり、蚊帳の中で寝たのはこれが初めてだった。(その後も35年間に経験なし)
8月23日
青森からバスで十和田湖に向かった。青森市と津軽海峡が一望に眺められる高台からの光景が素晴らしかったが、出発して間がないこともあり、休憩なしでどんどん走り去ってしまう。
このバスが出発する直前に近くの席の女性が土産のりんごに関して交わしていた会話が懐かしい名古屋弁、いや名古屋訛りの発音だったことで印象深い。一人が籠入りのりんごを持って乗り込んできて、先に席に就いていた女性が質問するところから再現してみよう。 D「Eちゃん、そこの店で買ったの?」、E「そうよ」、D「いくらだったの?100円?」、E「80円だったわ」、D「えっ!そんなに安いの。私も欲しいな。今からでも間に合うかしら」、E「もうバス出るんじゃないの」、D「そうだね。(諦めた表情を見せながら、Eの別の包みに気付く)こちらも買ったの? これは高かったでしょう」、E「値段は一緒!」、D「わぁ〜、やっぱり私買ってくる!」。その時、「発車しま〜す!」というガイドさんの声が掛かりバスは動き出してしまった。しばらく無言の後で、D「どうせ私荷物が一杯だもん。これ以上持てないわ」。
Dさんの顔がイソップ物語"キツネとぶどう"のキツネに見えた。
バスは酸ケ湯温泉で休憩。ここには清水が湧き出している水飲み場がある。ガイドさんが言った、「この水は一杯飲めば一年長生きし、二杯飲めば二年長生きするそうです。それでは三杯飲んだらどうなるでしょう」。答は「死ぬまで生きられます」。似たような話をどこかでも聞いたなぁ。
奥入瀬は緑のトンネル。秋の紅葉の素晴らしさで有名だが、新緑の時期やこの季節でも行って見る価値は十分ある。あちこちに小さい滝や小川のせせらぎが見られ、車が通らなければ歩いて散策するのがベストと言える。
そこから直ぐ近く、十和田湖の東岸の船着き場が子の口である。千恵子抄で知られる、彫刻家としても有名な高村光太郎の女性像が建てられているが、その裸像はモデルが悪いのか、私には魅力的と思えない。
ここから遊覧船に乗り、南の岸、休屋まで行った。この湖は緯度・標高が高くても冬に全面が凍結することはないそうだ。それは水深が深いため上下の水が循環して凍りつく温度まで一冬の間に冷え切らないからである。
休屋からバスで十和田南駅に出て、大館から日本海側の能代、秋田経由、横手、福島、上野と明日昼近くまで乗り続けることになった。帰り道の長時間乗車は実につらい。行き先に期待を持っていくのと、無目的ただ時間的に束縛されるだけという状況ではこんなにも精神的な負担が違うものかとつくづく感じる。
秋田から乗った団体のうるさいことにも閉口した。中年女性が多く、少し年寄りの男性が混ざっている。お互いに「先生!」と呼びあっているから、多分小学校の先生たちだろう。日頃、子供たちに偉そうなことを言って、模範的な言動を示さなければならないことが、こういう旅先で開放されると止め処もなく下品になってしまうのだろう。それでバランスを取るように人間はできているのかも知れない。それにしても車中は公共の場、部外者を無視した馬鹿騒ぎはご免蒙りたい。
8月24日
東京も中学の修学旅行で来ただけで、皇居前、松屋百貨店とその屋上から見た隅田川、赤門近くの旅館など僅かな、そして断片的な記憶しかない。この機会に都内を見てみるのも悪くないが、今はそんな気分になれない。もうひたすら家路を目指すのみである。
東京駅から乗った急行で同じボックスに居合わせた4人は年齢、職業、その他の点でまちまち。会社員風の若い男は一言も話さないうちにどこかで下車していった。
まず話しかけて来たのが中年のおばさん。O「失礼ですが。東京大学の学生さんですか」、I「いえ、違います」、O「そう、ではどちらの?」、I(どこでもいいじゃないのと思いながら)「名古屋です」、O「東京から乗られたから東京大学の方かと思いましたわ」
まったく可笑しなことをいう。東京には東京大学しかないと思っているのか、東京から汽車に乗ったら東京の学生と決めつけられるものなのか。
その後も学校関係のことをいろいろ聞かれたが、この人の息子が浪人中と聞いて、失礼を免責してやる気になった。
もう一人は学校のことなど丸で無関心という風だったが、そしてチビチビ酒を飲んだりしていたが、私が北海道からの帰りと知り、「東北地方もついでに周って来たかね?」と尋ねた。彼は秋田の出身で出稼ぎ労働者のようだ。
R「何といっても、まあ東北地方は、すんばらすぃいよ。温泉があんるしよ〜。酒は旨いし、それにオンナがきれいだ。うん (と一人でうなずく)」。
名古屋駅に降り立ち、桜通りまで出たところで焼け付くような猛暑に見舞われた。これが名古屋の夏だ。もうお盆も過ぎたこの時期にこの暑さが居残っている。
私は丸栄のカメラ部に写真の現像とプリントを依頼した。ジャンボプリントが10円。フィルムは36枚撮り3本であるが、ハーフサイズであるから倍撮れる。全部で二百枚以上になり、写真代もバカにならない。その足で下茶屋町(現在は橘町)の従兄の家に行った。早く帰って夏休みの宿題を教えて欲しいと道子ちゃんに頼まれていたからである。実は、従兄は写真屋をしている。ここでカメラも買ったし、少ない枚数ならタダで焼いて貰うこともある。しかし、今回のように多い枚数になると、ロハは気が引ける。割引にしてもらっても、ジャンボ版より高くつくのが実情である。夏休みでなければ、学校の暗室で自ら引き伸ばしをするという手もある。しかし、写真はすぐに見たいもの、休み明けまで待つ気にはなれない。
この旅行の最大の目標:九州旅行と併せて1万キロは達成できた。11日間で6100キロを乗った。毎日、東京〜明石間を乗った距離である。他に国鉄バスに2百キロほど乗っている。前者は、東海道本線の急行とは比べ物にならないほど遅い急行や鈍行列車で乗った距離であることを鑑み「これはかなりの記録だ」と自己満足している。
<補足> あとで確認したら、延べ乗車距離など問題外で、国鉄全線 約2万キロのうちの半分以上を乗車することが狙いであるとのこと。私は、このあと11月に千葉、茨城から新潟、富山、福井、京都を経て鳥取、島根まで連続で5夜、夜行のみを乗り継いだ旅、さらには正月2日から、風邪気味にも拘らず、紀伊半島と和歌山、奈良を巡る旅をして、全都道府県(当時は沖縄返還前で含まず)の通過と、国鉄路線1万1千キロ余りの乗車を達成した。
あとがき
前年夏の四国行きは体の良いタカリの旅だった。それが余りにもうまく行き過ぎ、「こんな甘えは許されるべきでない!」という反省材料になった。だから、この春に九州へ行くときは福岡、大分、熊本の3県にいる知人には事前に何も伝えなかった。只、下関の人には、「春休みに工場見学をする予定で、岩国とか徳山の化学会社を見る」とだけ伝えた。すると、そこから下関は決して近くはないし、徳山より先まで行くとも書いていないのに「下関を通る時間と列車名を知らせて下さい。お弁当でも作って届けます」と言ってきた。おまけに、今まで歳を2歳ほど若く伝えていたが、本当は私と同じ年齢であるという告白をして写真まで添えてあった。私は、「時間が未定であり、たぶん夜中になるだろうし、級友多数が同行するから・・」と断った。
ついでに、その人のことを書くと、高校を出てから地元の酒造会社に勤めていた女性である。このときの1年後に川崎へ出て、美容師の勉強をすることになる。その際「親許を離れた土地で盲腸になると困るから、予め切り取ってもらう」ということで手術を受けるという人だった。それまでに慢性の症状でもあったなら判らぬでもないが、まったく健在のまま盲腸摘出手術を受けたようである。私には、そんな勇気はないので心底敬服したものである。
他にも、"変わった考え方をする人"という印象を持ったことがある。それを真っ先に感じたのが最初に貰った手紙の書き出しである。「文通をするなら、2,3度で止めるような半端なやり方はしたくない。お互いにジジ、ババになるまで続けたい」といった内容だった。彼女は下関の港を見下ろす高台にある貴船町というところに、母と姉と共に女だけの3人家族で住んでいた。私からの手紙が届くと、二人が「何が書いてあるの?」と興味を示すので、「お金を取って見せてやるんです」ということだった。
川崎の転居先の住所も知らせてきたが、忙しくて手紙など書けなくなったのか、先方側の返信がないことで文通は自然消滅した。我々の入社教育の終わりに京浜地区の工場見学会があり、横瀬さんに引率されて、日産本社、いすず、旭硝子などを見学した折に、川崎で解散になったので、駅の電話ボックスで彼女の寄宿先の番号を探したが載ってなかった。
今回の旅先では、旭川に富良野出身の人がいたし、秋田県仙北郡にも知人がいたが旅行の前にも後にも知らせなかった。前者はもともと極く希にしか手紙をくれなかったが、旭川の藤女子短大の学生で卒業後は学校に残って講師として勤めていたようである。卒業後数年経った頃に、私の郷里の方へ修学旅行先(先生として引率中)から出した絵葉書が届き、豊和寮へ転送されてきた。京都、大阪、奈良へ行ったとして、帰りの名古屋通過時刻と列車名が書いてあった。私が当然会いに来ると予想しているような書きぶりに見えたが、それを私が手にしたときは2日ほど過ぎていた。絵葉書には住所が書いてなかったので、ウロ覚えの学生時代の住所に事情を書いて発信したのだが、宛先不明として戻ってきてしまった。私が見た彼女の写真は、冬に仲間数人と撮ったスナップ一枚のみである。皆、小太りに見えるのは、コートを着ているためだけではなさそうに感じた。そして誰もが長靴を履いていた。「北海道の女性は短足が多い。長靴のためにより一層短く見える」といった自嘲気味なコメント付だったかと記憶する。
旅行の話で、もう一つ気をつけなければいけないことを、神奈川県大磯町から吉祥寺に移った方から、後日(卒業間際)に教えられた。その人とは、長く音信不通のため、四国の話しか伝えてなかったが、私の手紙での書き方が"自慢たらしく、鼻持ちならない"と感じたらしい。そういう表現ではないが、私が他人への配慮が足りない人間である例として、その人が母親を亡くしたときに、私からの慰めの言葉が極めてお座なりだったことと共に記されていた。
私が他人への配慮が足りない人間である点にいては、今も一向に改善の跡がないので、妻にしばしば指摘され、きつく詰られたりしている。
ここでは旅行の話だけに絞る。余程注意しなければならないことは、相手が行ったことのない場所については、"聞かれたら話す"という程度に留め、興味があるかどうかも確かめずにベラベラしゃべるべきでない。本人には、そんな気がなくても、相手は"自慢話"とか、「おまえにはマネもできまい!」という蔑み (さげすみ)の態度と取りかねない。
そういう観点からすると、今回のメモも及第点を取れそうもない。石松さんに予め見せたら、「どこへ行ってもモテますね」と言われたが、「こんなにモテたんだぞ!」という潜在意識が文中のそこここに感じられて、他人が読んで気分のよい紀行文でないに違いない。
しかし勝手なことを言うと、「なにぶん35年間の熟成で、何もかもが自分に都合のよい美酒に変化してしまったものと思っていただきたい。そして、『昔は良かった!』という老人の戯言と笑って済ます、暖かいご配慮を賜りたいものです」ということになる。
1995.6.15 記述 1997.5.15 補遺 2003.10.3 修正追記
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初めての四国一周/甘えとタカリの恥かき旅行 1959年8月2日〜8月9日 |
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<まえがき>
過日、私が過去数年の間に書き溜めた文章のリストを常連の読者一同にメール送信しました。翌日、一番熱心な読み手から「あのリストを見ると、講演のメモが充実しているのに対して、紀行文が少ないですね。もっと、それを書かなくては」という勧めの言葉が返ってきました。
私は「紀行文が少ないと言われても、実際どこにも行ってないのだから仕方ないよ」と答えましたが、それで納得する人ではありません。「『初めての北海道』、『初めての九州』だって、何十年も前のことを最近になって書いたじゃないですか。その頃にはまだ他にも行っている筈です」。
それを言われるなら、“四国一周の旅行”と、九州・北海道・四国の3回の旅行で行き残した11県を全部廻ることを狙い、実際は8県を通過してきた“連続5泊夜行のみで駆け巡った旅”、そして学生のうちに済ませないといつ全県通過が達成できるか分からないという自己脅迫観念に囚われたかのように風邪で発熱していながら強行した“南紀一周の旅”を書くしかありません。
5回の旅行で一番先に行ったのが、今回取り上げようとしている四国一周です。これは始めから四国が目的地だったのではなく、「九州へ行くのに山陽本線経由ではアリキタリ過ぎて面白くない」という発想から選んだコースでした。途中で大型台風の来襲に見舞われ、尻尾を巻いて逃げ帰ったという苦い思い出のある旅でした。また、学生であることの甘えの数々をしでかしたことが恥ずかしく思い起こされます。そして、「意図的ではなかった」と言いたいのですが、結果的に“タカリの旅”になってしまったという点で我が青春の汚点となっています。
そういう事情から、あまり書く意欲が湧かないのですが、悪行の一端を曝して世間
に懺悔する気持ちで以下をまとめます。
<事前の旅行体験>
大学3年の夏までで、私の旅行体験は遠足・修学旅行がすべてという状態でした。小学校にあがる前から高校卒業までは、家族で旅行するなどという優雅な時代ではありませんでした。強いていうなら、旧制中学在学中に親に内緒で志願して兵役に就いた兄(10歳年上)の慰問に、母と兵庫県の加古川へ三度行ったのが個人的な汽車の旅ということになります。私が満5歳から6歳になる昭和18,19年のことです。
兄は我々と会うと「何しに来たのか」というような横柄な態度で偉そうな口の利き方をしていましたが、「家を出る前に撮った写真を持ってきて欲しい」とか、「ボタモチが食べたい」などと面会を要請する手紙を頻繁に送ってきていたと20年も経ってから母に聞きました。汽車のダイヤの乱れで、その日のうちに戻れなくなり車中で隣り合わせた大阪の人の家に泊めてもらったり、米原から乗り換えを間違えて北陸線の敦賀、今庄に朝早く到着して季節はずれの残雪に驚いたり、加古川の兵舎に向かう途中の田舎道で旧式な脱穀方法を見たりした・・・・そんな情景が断片的に思い出されます。
ダブダブの軍服を着た小柄だった兄が、会う度に髭面になり、鼻毛が黒々と目立つようになり、大人らしくなって行くのを幼心に感じたものでした。彼の軍隊の中での話し言葉の口調を私も真似て喋るようになり、隣家の嫁さんから「よっちゃんはライ(磊三)ちゃんの面会に行ってくると話し方が変わるね〜」と笑われたものです。
<旅立ちのきっかけ>
「経験に先立つ欲望はない」とある心理学者が言ったそうです。それが一般的な真理かどうかは別として、旅行をしたことがないに等しい私には「旅行をしたい」という欲求はあまりありませんでした。今もそうで、旅行に行くより物を買いたいという気持ちが強く、自由に使える金があったら、まず旅行には使わないでしょう。
学生のときは1年分のアルバイト代を注ぎ込まないと買えない天体望遠鏡が欲しくてたまらない時期がありました。「五藤光学の望遠鏡の性能が一番よさそうだ。アストロ光学なら買えるかも知れない」とカタログデータを前に長い時間を費やしたものでした。それが実現不能と諦めた代償として、「旅行でもしてみようか」という気持に向かったように思います。前年までは「夏休みに北海道へ行った」、「九州へ行った」という級友の話を聞いても無関心だったのが、3年の夏、少々コガネが溜まった機会に、急に我がこととして意識に昇ってきました。
旅行で金が掛かるのは宿泊だから、親戚・知人宅など利用できるところは最大限に活用する。夜行列車に乗れば寝ている間に行きたいところへ行ける。・・といった程度の事前検討で、交通費を含めて一日千円を目標に資金計画を立てました。
旅先は京都の親戚で一泊、四国に渡って高松で一泊、高知一泊、八幡浜から船内泊で別府に朝到着して、阿蘇を経由して熊本泊、博多から夜行で帰途に就くというような内容だったと思います。
名鉄百貨店でバイトをしていた市川勝さんに話したら、「俺も一緒に連れて行って
くれ」ということになりました。
<旅行記のスタイル>
私にこの文章を書かせた人は、「旅行中にあったことを順番に書き並べるだけでは小学生の作文だ」といいます。彼の場合はテーマをきっちり決めて、見聞きした事実だけではなく、いろいろ考察を加えます。その視点・着眼点が実にユニークであることと、現地の人との交流を巧みに行っていることにいつも感心させられます。トルコ風呂の中で、突然出会った相手が大財閥の御曹子であっても、物怖じせずに対話してたちまち意気投合してしまうという特技もありますし、妙なる音楽が聞こえてくれば舞台に上がり即興のダンスを踊って喝采を受けるといった芸人でもあります。
その彼が同じレベルを誰にでも期待するので、文章を書くことに嫌気が差して終う人もいるようです。
私の旅行は無計画、行き当たりばったりですから、「この旅のメインテーマは何でしたか。何を期待し何が得られましたか」と彼に聞かれても答えようがありません。「行き当たりばったりでも構いませんよ。『綿密に計画し、行ってみたら旅行書で読んだのと全く同じでした』などというより、いろいろ予期しないハプニングがあるからこそ、行く価値があるのです。そうした旅行でも何を感じたか、今度はどうしようとkayさん独自の発見・発想がある筈です。それを書かなければ意味ないですよ」とも言われ、どう書いたらよいか、ますます迷ってしまいます。そこで私は小学生の作文スタイルで通します。そして書き終わったときに、何か感ずることがあれば補足しましょう。これは面白くない野次喜多道中記で、旅の日々に何が起きたかを書き連ねるだけの他愛無い記録です。若気の至りを曝して、自己反省材料にしたいというのもオコガマシイ駄文です。「下らない」と思ったら、即刻破棄して頂いても結構です。
なお、当時の状態で日記風に書いたり、現時点でのコメントが混じったりと時制が不統一になりそうですが、適宜ご判読ください。文体もここまでと変えます。
<1日目:8月2日>
名古屋駅で7時に市川君と落ち合い、普通列車に乗り4時間半掛かりで京都へ行った。切符は予め交通公社で手配した周遊券で2860円也。
この日は実に暑い日だった。日頃アルコールを口にすることもない私が「この喉の
乾きは水では治まらない。今晩はビヤガーデンで飲むぞ!」と彼に告げた位だった。
四条河原町で市電を降りて映画館の南側の道を西に進むと、100メートルそこそこで新京極の通りに突き当たる。ここは観光客で賑わう細い道で車は通らない。そこまでの途中のT字路を南へ折れるとやっと車が通れる位の寺町通りがある。名前のとおり寺が連なっている。角から2軒目が○○院という寺。住職は従兄弟の隆純さんである。彼は私の兄と同年の昭和3年生まれ、当時31歳で未だ独身だった。因に兄は20歳で結婚して3人の娘があった。
隆純さんは幼名を隆司といい、毎年夏休みになると亡父の郷里である七宝村遠島の我が家に来ていて、「たかちゃん」と呼ばれていた。以前に他の文に書いたことがあるが、母親は彼が幼少時に亡くなり、彼は継母の了さんに育てられた。了さんは彼より8歳下の次男、11歳下の長女、14歳下の次女を生むことになったが、次女がお腹にいるときに夫が病死するという不幸に見舞われてしまった。
そういう事情から、隆純さんは旧制中学在学中から一家の経済を背負う大黒柱に立たされることになった。それが出来たのは家が寺だったからである。それにしても、遠くにいる我々には測り知れない苦労があったものと思われる。
隆純さんは遠島へ来るのに、何の前触れもなく来ていた。だから私も京都の親戚に行くのに葉書一枚出さず突然お邪魔してしまった。いま思えば、実に失礼なことをしたものだと思うのだが、私一人ではなく友人まで伴って現れたことに了さんは大変驚いたようである。
ただ、私が行くことを全く知らなかった訳ではない。前日に「エキヘムカエニイク
ニチジ シラセ」ヨシコという電報が着いており、宛先が○○○カスミサマカタヨシホサマとなっていたからである。
ヨシコさんは数ヵ月前に手紙をやり取りし始めた女性だった。ラジオ英会話のテキストに文通希望者の欄があり、そこに載った私宛に「英語の勉強の仕方を教えてください」という依頼のような手紙をくれた人だった。私は、高校に入ったとき英語が最も苦手科目だったのをどのように克服したかを具体的に記し、「卒業時には数学よりも確実に高得点が取れるようになり、工学部の入試に失敗したら学芸大学の外国語科に入ろうと思った位です」というような応答をした。それでもうお仕舞いになるかと思ったら、あの質問は返事を貰いやすくする口実に過ぎなかったようで、引き続き日常茶飯事を書いた手紙が来るようになってしまっていた。
そのヨシコさんに、出発の3日前出した手紙に「九州へ旅行することになり、4 日頃高知を通ることになりそうです」というようなことと、「最初の宿泊は京都の○○院
という親戚です」として住所まで書いたのだった。
隆純は“こうじゅん”と読むが、「タカスミとあれば、うちに間違いない。ヨシホサマは遠島のよっちゃんだろう。近いうちによっちゃんが来るのだろうか」と首を傾げている矢先に我々が現れたということだったのである。
昼間のうちに金閣時と嵐山へ行った。了さんは長年京都に住んでいても、そういう観光名所には一度も行ったことがないそうで、「どちらにあるんかと聞かれても、よう答えまへん」ということだった。
市役所の水道局勤務から帰宅した隆純さんは、夕食後に我々を東山一帯の散策に誘い、帰りに河原町通りのビル屋上にあるビアガーデンに連れていってくれた。ここで飲んだビールは、まさに冒頭の表現に相応しいもので、“水では癒せない喉の乾き”に効果絶大だった。
<2日目:8月3日>
○○院を出るときに、了さんから「なぁ〜よっちゃん!いつ来てくれても構いゃへんけどな〜。来る前に葉書一枚でええから知らせてや〜」と釘を刺された。しかし、その以後でも事前に知らせたことは一度もなく、せいぜい駅についてから電話する位だった。それは泊まるような立ち寄り方を殆どしなくなったためでもある。
京都から岡山方面に向かった。明石を過ぎ「次は須磨〜」という車内のアナウンスを聞いて、急に降りることにした。須磨の海岸といえば、高校時代に古典の授業で出てきた“美しい浜辺”というイメージがある。「海水浴場がある。泳いでいこう!」ということになった。しかし、すぐ無残に裏切られた。浜辺は余りにも狭く、泳いでいる脇に汚れた生活用水が流れ込んでいるのを見て早々に引き揚げることになった。
そのことを後日、淡路島の安本さんという女性宛に書いたら、「須磨の海岸は汚いでしょう。洲本は砂浜も海の水もずっと奇麗ですよ」ということだった。
宇野から高松に渡る宇高連絡船に乗るのは、高校2年の春休みの修学旅行と併せて二度目だった。高校のときは倉敷を見て、鷲羽山で一泊したあとの早朝便だった。薄暗いうちに表に出ると、遥か下に見える島影を縫って行き来する漁船の灯りが幻想的だった。
高松では屋島、栗林公園もまだ記憶に新しかったが、市川君を案内するような気分で行ってみた。屋島では眼下に拡がる塩田を目がけて焼き物の皿を投げるという観光客の遊びがある。とても投げて届く距離ではないが、「俺が投げたら塩田まで飛んでいくぞ」と錯覚させるほど間近に見えるのだった。
高松市出身者で大崎凡二君が級友だった。彼はこの休みに入ると直ぐに北海道へ行くと聞いていたが、8月の始めには帰省するということだったので、挨拶のつもりで家に寄ってみた。
そこは高松市内の高級住宅地というたたずまいの地域だった。彼の父親は大手保険会社の支店長で、家は社宅だったが幹部用のかなり豪華な造りがされていた。庭園も付いていて、しっかり手入れがしてあるように見えた。
我々を迎えに出てきたのは彼の母親だった。「お友だちの方ですか。ようお越しになりました。でも、凡二は北海道へ行ったまま、まだ帰らないんですわ」といい、彼が約束をすっぽ抜かしているのではないかと気遣う様子だった。ここに泊めてもらうという期待がなかったといえば嘘になる。夕刻が迫る時刻に、そういう期待を抱いて訪れたのは、これまた常識外れの行いだったが、彼がいないとなると、どこか旅館を探さなければならない。
そういう戸惑いを母親は察してのことだろう。「今夜はどこかお泊まりの宿がありますか」と尋ねた。「いや、駅前でこれから探します」と答える我々に、「今からでは見つかるかどうか分かりませんよ。うちで良かったら、凡二の部屋に泊まってください」ということになった。彼とは部活などで付き合いがある訳でもなく、ただ2年余り同じ教室で授業を受けたというだけの関係に過ぎなかった。
我々が夕食を済ませた後に帰宅した父親は彼とそっくりな丸っこい体つきで、白髪の紳士だった。「凡ちゃんは『金がない。金が足りない』といって、追加の送金をさせておいて、ちゃっかり長旅までやっとるんだから親はたまりませんな〜」と言っておられたが、我々二人の家庭とは生活レベルが違って、遥かに高いことをいろいろの点で感じさせられた。
<3日目:8月4日>
大崎君の母親は親切というか、心配性というか、本当に細かく面倒を見てくれる人だった。家を出てから駅への道は、前日に自分たちで探しながら来たところを引き返すだけだから、教えて貰わなくても分かっているのだが、バス停までの道をこと細かに説明した上、二つ目の曲がり角までついてきてくれた。乗り物への注意、食べ物や飲み水の注意までしていただいて、ご親切にして頂きながら、有り難迷惑に感じる程だった。また「凡二をよろしく!」という言葉も数え切れないほどくり返していた。
注:何年か後に、こんなタイトルのテレビ番組があったような気がする。
金比羅さんも形ばかりのお参りをして、高知に向かう汽車に乗った。琴平から高知の間の山間部は大歩危小歩危(おおぼけこぼけ;大崩壊小崩壊とも書く。徳島県西部吉野川が四国山地を横断する渓谷部)で有名な景勝地であり、深淵と絶壁・奇岩が続く交通の難所でもある。当然、トンネルの連続となる。その数、実に百八つとか。
列車は東海道線が完全電化されていて、多くの路線ではディーゼル化が進んでいたこの時期に、ここでは蒸気機関車が健在、否、唯一の輸送手段だった。
暑くても冷房どころか、扇風機もない客車に乗り、窓からの風だけが頼りの真夏の旅であるが、トンネルに入ると炭塵混じりの煙が飛び込んでくる。慌てて窓を閉め、やっと明るくなって窓を開けると、「またトンネルだ!」と声が飛ぶ。こうしていつも窓枠に手を掛けたまま閉める、開けるの繰り返しになる。その頻度があまりも多いので窓から身を乗り出して見たら、列車の先頭と後尾が別のトンネルの中だった。
やっと開けた土地に出て暫く行くと、後免という駅に着いた。この辺りは米の二期作地帯ということで、中学の教科書で見た二度目の田植え風景が、一度目の切り株の残る田んぼと隣合わせに見られた。それをある人に後日話したら、「二度目は田植えをしなくても切り株から自然に伸びてくるでしょう」と言われた。確かに、水を張っておけば、そうなることが予想されるし、そういう状態を秋の取り入れ後の水田で見掛けることがあるが、私が見たのは田植えだった。私も百姓のセガレだから若干の農業知識はある。取り入れた後、耕して土壌をフレッシュにさせないと肥料を与えても稲が十分生育するだけの養分を確保できないのである。
注:養分の吸収よりも、成長点が切り株に残っているかどうかの問題であるという指摘を受けました。稲にも「小生え」はあるが、肥料が足りても成育しないというご意見です。
高知駅では列車到着と同時に「名古屋からご到着の太田さま。お迎えの方が改札口右の売店前でお待ちです」というアナウンスがあった。
そこには背の高い中年の婦人がいて、我々を目当ての人物と認めて近づいてきた。そして、「好子の母です。娘はただ今勤務中ですので、代わりに参りました。高知では、どちらかに宿をお決めですか」と尋ねた。「いえ、ここはちょっと寄るだけで、夜までに八幡浜へ行って、夜行の船便で別府に渡ろうと思います」と答えると「娘も皆さんにお会いすることを楽しみにしています。高知にも良いところがありますから是非ゆっくりしていってください。実は、私、この近くの旅館に勤めていますので、お部屋を取っておきました。まず、そこにご案内します」と言って、当然付いてくると確信したように歩き始めてしまった。
三翠園という和風の旅館で、立派な門構えを通ると、その中は玄関までの両側が手入れの行き届いた庭園になっていた。部屋迄への通路で見掛ける置物など、如何にも高価そうな品々に「場違いな所へ来てしまった」という感じを強く受けた。
それもその筈、この旅館は数年前に天皇が行幸された折の宿とのこと。中庭が広くそこの皐月(さつき)は、高知一という名声を得ているのだそうだ。
泊まった部屋は意外にも洋室のツインだった。食事はダイニングルームに用意され鯉の刺身など、今まで食べ慣れない料理がほとんどだった。
こんな旅館に泊まったら、一泊で旅費の大半を使い果たすのではないかという不安があった。どこかに料金表がないかと探したら、最も安い部屋代が 1500円だった。これは私が利用する旅館の約3倍だった。当時は素泊りで、450円から550円、二食付きで700円といったところが大衆宿の相場だった。
話は前後するが、ヨシコさんは夕食前の日差しが高いうちに仕事を終えて宿に来た。私は母親に似た長身の麗人を予想していたが、それとは大分イメージが違っていた。父親似だったのか、小柄で目鼻の部品・配置共に母親の面影は感じられなかった。私の好みのタイプではないが、初対面とは思えない親しみを感じさせる顔であった。
彼女は私の誕生日が近いと知り、翌々日最後に別れる時にシバテンという、高知の民話に出てくるカッパの人形を贈ってくれた。その次の日、窪川からのバスの中での市川の表現によれば、「あの人形はヨシコさんにそっくりだ」ということだった。それは実に的を射た表現だったのだが、私は同意して笑う気になれず、“自分の知人に恩を受けながら、その人を中傷した不届きな奴”として彼を憎々しく思った。
高知城も歩いて行ける場所にあり、閉館直前に天守閣に登ることができた。
三翠園の前は鏡川という川だった。大して大きな川ではない。夜のことであり、よくは分からないが幅10メートル弱でなかったかと思う。暗くなってから、そこでも泳ぐことにした。岸で水着に着替え二人で泳いだ。吉岡さんは、着衣を見張っているといって、稚拙な我々の泳ぎを見守っていた。流れがかなりあり、水温は概して生暖かかったが、ときどきびっくりするほど冷たい水の一団が押し寄せてきた。
彼女は造船所の事務をしていて、祖母と二人住まいとか。母親は旅館で他の人から「ニシカワさん」と呼ばれていた。そして、半年後に私とヨシコさんの文通は途切れたが、その直前に彼女の苗字が西川に変わったという連絡を受けていた。
<4日目:8月5日>
この日は早朝に高知を発ち、宇和島方面に向かう予定にしていた。ところが、ヨシコさんと西川さんが口を揃えて、「今日は日曜だから一日案内できます。桂浜へ行ってもいいし、ちょっと遠いですが竜ケ洞もいいですよ。ここの鍾乳洞は、まだ全国的に知られていませんが、山口県の秋芳洞に負けないくらいの規模だということですよ」と熱心に勧めてくれるので、もう一泊する前提で高知に留まることになった。
「桂浜なら近い」ということで、そちらにしたが、結構距離があった。いま地図で見ると50キロ位はありそうに見える。バスを降りてから波打ち際までかなり広い浜が続き、右の方の小高いところに銅像が建っていた。それが幕末尊攘派の志士坂本竜馬である。
この浜に私の母が婦人会か何かの旅行で行ったことがある。我が家には戦死者はいないが、どういう訳か遺族会の行事に誘われることが多かったので、その関係の旅行だった可能性が高い。母は、「バスを降りたところで美しい石を売っていたので孫娘への土産にちょうど良いと思って買ったら、その先にそんな石はいくらでも転がっていた」と嘆いていた。ここは珪砂の浜であるが、五色石という石が混在している。
結局、この日は桂浜の往復だけで過ぎてしまった感じで、あとは旅館の部屋で三人でトランプをしたり、合間に私のトランプ手品を披露したりしたのみだった。
食堂で出された料理は、朝夕共前日と全く同じだった。
<5日目:8月6日>
いよいよ高知を離れることになった。この頃ペギー葉山の“南国土佐を後にして”という歌が爆発的にヒットしていた。あの歌詞の中の人物は、この土地で生まれ育った人であり、我々如き一日、二日滞在した者の心境とは無縁であるが、汽車が動き始めると、思わず口からあの歌が出そうになった。見送ってくれたのは、また母親の西川さんだった。
前年に高知商業だったか、土地の高校が甲子園で活躍したとか、ミスユニバースに高知の女性が選ばれたとかということで高知ブームというか、この地方にスポットライトが当たっていた時代だった。私が高知経由の九州行きを計画したのは、ヨシコさんが居たからではなく、そんなに持て囃されている土地への関心があったのだろう。
高知から西へは窪川までしか鉄道が通じていなかった。そして窪川までも、大歩危小歩危と変わらないほどトンネルの連続だった。
窪川から江川崎までは国鉄バスで連絡していて、右は切り立った崖、左は深い谷底という山道を3時間半掛かりで行くのであった。バスの運転手は急な下り坂に差し掛かる度にブレーキテストを繰り返した。数百メーロル置きに待避場所が設けてあるとはいえ、その頃は対向車が少なかったので、あんな狭い道をバスが運行できたのである。私はバスの左側最前列、つまり運転手の隣に乗っていたが、待避場所で対向車を避けるとき、窓の下を覗くと地面は全く見えず直に谷底という状態で肝を潰したものである。(現在は宇和島回りの循環鉄道が敷かれている)
夜に乗る連絡船は宇和島発であるが、つぎの停泊地八幡浜から乗った方が旅費が安いということで、そのような周遊券が組んであった。しかし、車中の案内によると、大型台風が接近していて今夜の船は欠航となるとのこと。嵐の前の静けさなのか、まだ風は感じられない。思えば、昨日の桂浜が風もないのに波だけは高かったことが台風の影響だったのか。
「明朝の便は出る見込み」と聞いて、宇和島で泊まることにした。駅前の安そうな旅館を選び、二食付きで550円だった。これが旅行中支払った唯一の宿泊代となった。三翠園は払えるかどうかも心配しながら、一部なりとも自分たちで払う積もりで居たが、全額西川さんが引き受けてくれてしまった。その礼がきちんとしてないことに、今も心が痛む。最近、テレビの番組で昔世話になって消息の知れない人を局に探してもらい、再会するというようなことをやっている。そんな番組に申し込みたいような気持ちもあるが、先方にもこちらの身内にも迷惑が掛るような気がして踏み切れない。
<6日目:8月7日>私の誕生日
朝の便は出ると信じて港まで行ったが、まだ欠航が続いていると聞いてがっかり。気の短い私は、「旅行を打ち切って帰る!」と宣言した。市川君は、「せっかくここまで来て、九州に渡らないのは残念だ。俺は夜までここで待つ」というから、私一人汽車の駅に向かった。
ところが、汽車が出る寸前に彼が駆けつけて来て「やっぱり俺も帰ることにした」という。また、二人旅を続けることになった。旅といっても、ただ家路に就くというだけの乗車・乗船。こうなると、もう途中に何があろうと興味は湧かない。ひたすら帰るのみ。
それでも、どうせ本州に渡るなら二度も乗っている宇高連絡船より、もう一本ある堀江から仁方への連絡船(仁堀連絡船)にしようと思って松山の近くの堀江で下車した。ここは瀬戸内海だから波風が高くないためか動いていて、汽車の到着に合わせるように仁方からの船が到着した。下船の客が途切れるのを待ち構え、乗り込もうとすると制止され、無情にも「つぎの便から欠航になりました」と言われてしまった。
こうして再び高松行きの汽車に乗ることになったが、「宇高連絡船も欠航ですか」という問いに「あちらは船が大きいので、まず欠航はしないでしょう」と駅員は答えた。「そんなことを言っても、また裏切るんだから・・」と私はもう誰も信じられない気分だった。
今度は本当だった。夜中の連絡船に乗ったが、あとは翌日京都まで舞い戻る過程に何があったか、何も覚えていない。
<あとがき>
このあと再び京都の親戚頂源院に寄り一泊。翌日の午後3時頃に市川君は先に帰り私はもう一軒の親戚石川純蔵さんという伯父(市役所の近くで菓子屋を営む)の所に顔を見せたりして、名古屋行き最終の準急に乗って午後10時頃帰宅した。
この間に宇野から大阪への快速電車で市川君とは5両も離れた客車に乗ったとか、京都駅まで来て1番ホームで彼を見つけて、直ぐ帰名するつもりの彼を親戚に連れていって夕方まで寝させておいたとか、仲違いしたり、またくっついたりというゴタゴタがあったが、下らないので詳細は省く。
ここまで書いたところで、当時の日記を取り出して読み返した。そして、自分では鮮明に覚えている積もりでも、随分メモリーが崩れ始めているとつくづく感じた。
しかし、実際の日付が2日早かったことと、ごく一部の表現を修正するのみで、あとはそのままにすることにした。38年以上も前に旅行した中でのこと、それが事実と食い違っていたとしても何の支障もないことである。
以下に、日記とこの紀行文で違っていたこととか、日記で思い出したことの事例をいくつか列記する。
2日目:大崎邸で泊まる夜、10時頃に徒歩15分の駅前まで行って高知への電報を打った。ついでに市内を見てまわった。
3日目:高知駅到着は17:30で、迎えには母娘揃って来ていた。ただ、最初に母が挨拶して、少し離れた場所に居た娘を紹介した。
三翠園は土佐藩主山内公の屋敷跡で、戦時中までは庶民は寄りつけない場所だった。戦災で焼け残った建物に建て増しして旅館になった。
三翠園の部屋は“チェリーの間”で、千代さんという女中さんが世話してくれ ていた。部屋の外は芝生だった。中庭の一つには龍の噴水があった。
絵はがきにあった庭は直接見なかったが、相当に広大だった。
この日の夜は市内のデパートへ行った。夜9時まで営業していて、大丸ともう1軒を廻り、2軒目の屋上でビールを飲んだ。
高知城へ行ったのは、翌日の早朝(6時半起床)だった。ヨシコさん案内。
ヨシコさんは祖母のほか、祖々母とも一緒の3人暮し。
4日目:千代さんに3人分のランチを準備してもらった。
桂浜の展望台から見る浦戸湾は美しく、台風6号の影響で波が高かった。
海の色が沖合は紫色、その手前はブルー、そして岸の近くは濁った茶色に見えた。
6日目:窪川から江川崎までのバスは3時間20分であったが、連絡する列車が2時間後と知り、45円追加して宇和島までバスに乗り続けた。合計5時間半。
7日目:市川君は夜の便まで待つ(昼間の便で九州に渡ると中途半端な場所で宿を取る必要があることを嫌ったためか)というので、私だけがタクシーで港まで行ったが欠航と知り、タクシーで駅前まで戻って旅の中断を決めた。市川君も一人旅を好まず、しぶしぶながら私と行動を共にした。
堀江では駅当着の2時間あとの連絡船は出ると聞いて待ったのに、出港時刻直前に欠航と決まった。
8日目:宇野から大阪まで20の停車駅があったが、熟睡している間に通りすぎた。
これでは何も覚えていない訳である。
<蛇足>
旅行のあと、文通相手に旅の様子を便箋7〜8枚ずつ書いて送り、写真を2枚ほど同封した。それまで先に写真を送ってきた人は皆無だったが、ほとんどの人が返信にスナップ写真を入れてきた。
沖縄の高校生、熊本出身で長崎の短大生、大分出身の九州大学医学部看護学校生、洲本の安本という女性(前記)、秋田大文学部の方、富良野出身の旭川藤短大生等。
しかし、文字の美しさと文章から、とても魅力的な人ではないかと想像を逞しくしていた二人の女性からは無視されてしまった。大磯から長距離通学で東京理科大学の薬学部に通っていた玖島さんと、九州大学文学部の桑野さんである。後者は炭坑の町田川の出身の人だったが、学生運動のデモに初めて参加して共感した旨書いてあったのに対して、私が非難めいたことを書いたことで音信不通になっていた。
私は文通希望を出した以上、原則として手紙をくれた人には誰にでも返信しようと思っていたし、自分から勝手に中止しないつもりだった。しかし、半数以上は自分側に原因がある止め方になってしまった。
中には私の名前を見て、女性であると勘違いして出したと思われる男性からの手紙もあったが返事はしておいた。でも、そういう人から二通目が来ることはなかった。
卒業間際まで続いたのは3人のみで、その一人は英会話テキストに名前が載ってから1年半も経ってから文通を始めた人。徳島県から岐阜の紡績会社に入って女工さんに教える会社内定時制高校の先生だった。
その3人とは少ない人で70通、多い人とは130通くらい手紙をやり取りしたこ
とになる。そして卒業間際には「工学部の味気ない授業と実験続きの毎日の中で、あなたからの手紙が届いたときは心が安らぎました」といった感謝の言葉を記し、これが最後とは書かなかったが、以後は相手からの手紙が来ても開封しないことにした。こういう場合、“二回続けて返信がなければ、続ける意思がないか、返事できない事情が生じたものと判断するという不文律”があるかのように、そして彼女等がすべてそれを認識しているかのように、きれいさっぱり手紙は来なくなった。
逆に、長らく途絶えていた玖島さんから、卒業と就職を伝える手紙が来た。これにも私は応えなかったが、内容はつぎのようなことだった。
*スタンダード石油に就職が決まり、藤沢に勤務する。
*旅行の様子を書いた手紙を見たとき、自慢たらしい話に感じた。中に写真が同封 してあることには、最近読み直すまで気づかなかった。
*母の死去したときの慰めの言葉をもっと丁寧に伝えて欲しかった。
*International Volume Game は馬鹿らしくて参加する気になれなかった。
注:これは体のよい幸福の手紙で、5人の人に同じ文章の絵はがきを出すと数週間後に何百枚かの絵はがきを受け取れるというもの。あちこちから、こんな葉書が舞い込むので、試しに途切れていた玖島さんの名前を借用したら、ますま す軽蔑されてしまったのである。
<結び>
玖島さんの手紙は、浮ついた学生気分から卒業するのによい薬になった。いまでは誰でも何処へでも気軽に旅行できるので、旅行のことをどのように話そうとそれを聞いて気分を害する人は少ないかも知れない。それでも、本当に相手が興味を持ってくれているかどうかを確かめながら、尋ねられたことを話すという謙虚な気持ちを忘れないようにしたい。そういう点で今回のこの文はどうだったろうか。
例の方にはまた、「kayさんの女性関係は予想以上に多彩ですね」と皮肉られそうである。
完
1997.1.17 記載 |
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関東・北陸・山陰一周/連続5泊夜行の旅
at 2005 02/21 12:12 編集
45年前、学生のときの旅行の様子を7年余り前に思い出して描いた紀行文です。
文中におかしな誤字があるかも知れません。それはワープロ専用機で作成し、印刷しておいた文書をイメージスキャナーで画像として取り込み、OCRソフトで文字化した過程で間違いが生じている虞があるということです。いくつかは気づいて修正しましたが、まだ完璧とはいえません。
関東・北陸・山陰一周/連続5泊夜行の旅 97/01/29
1960年(昭和35年)11月2日〜7日
<まえがき>
学生時代に私が試みた旅行はあちこち動き廻るだけで、何のために行くのか、行って何を得たいのかが自分でも分かっていないという面があった。
そんな私に級友の一人が「また、犬のションベン旅行に行くのか」と嘲笑の言葉を投げかけたのがこの旅行だった。「あそこに行った」、「ここにも行った」と証拠の写真を残すだけでは、犬が臭い付けをしてさ迷い歩く姿と何ら変わるところがない。 しかし、この度の旅ばかりは、ただ一つ明確な目標があった。それは、“私がまだ行ったことがない県”、もっと正確に言えば“まだ通過したこともない県”を無くすることだった。
大学3年の夏に四国、4年になる年の春休みに九州、その夏に北海道と大きな旅行を3回して、それ以前の修学旅行で京都(小学校)、鎌倉・東京・日光(中学)、中国地方・四国北部(高校)へ行ったことと合わせると、あと12の県がまだ足を踏み入れてない処女地として残った。それらを一気になくしたいというのが目標だった。私が全部の県をすべて旅行したとしても、「それが何だ」と言われれば返す言葉もない。「そんなことを自慢したいのか」とストレートに言われたら気分が悪いが、潜在意識として、そんな気持ちも皆無だったとは言えない。しかし、ここは気取って、「学生時代の時間はあっても経済的に余裕のない中で、日本中を踏破するのは“男のロマン”だったのだ」ということたしておこう。
ただし、12の県すべてを一度にカバーするには、同じ経路を往復しなければならない部分が多く、日数をあまりにも長くしなけばならないことから諦め、後日でも行きやすい近くの4県を除くことにした。実施時期が夏冬の長期休暇中でなかったし、滞り気味な卒論実験の最中でもあったので。
<旅行の日程>
11/02(火)名古屋から夜行普通列車で東京へ
11/03(水)早朝東京着、千葉、犬吠崎、潮来、東京に戻り夜行新潟行
11/04(木)新潟、佐渡往復、新潟より夜行にて富山へ
11/05(金)富山、金沢、京都、夜行で出雲へ
11/06(土)出雲、鳥取、京都へ夜行
11/07(日)京都、名古屋、帰宅
<事前準備>
九州と北海道への旅行では均一周遊券を使用した。前者の例で言えば、九州の中では国鉄の急行以下の列車と国鉄′くスはどのようなルートで何度くり返しても自由に乗ることができた。従って、凡その目的地は意識していたが、それこそ“足の向くまま気の向くまま”当初は予想もしなかったブラウン運動のような行路となった。
今回はそんな具合にはできない。どこをどう廻ったら、旅館に泊まらないで、より効率的
にこなせるかと、ルートの手前梼討を繰り返した。そして周遊券を組むにも、どこからどこ
を経由してどこまで集めて一枚の切符にするかで頭を絞った。
というのは、国鉄の乗車券は同じ距離数でもなるべく長い距離を一まとめとした方が割安になるからである。A地からB地(下車)を経由してC地へ行くのに、A−B、B−Cという買い方をするより、A−Cと買って、Bは途中下車にする方がずっと安くなる。一部、支線に乗り換えて往復する部分があっても、その箇所のみ別の切符として、始めからの切符は先まで通しにしておいた方が有利である場合が多い。
私がそういう配慮をした計画書を示して交通公社の係長に示すと、「よくここまで考えましたね。脱帽ものです!」と誉めてくれたが、さすがに彼らはプロである。出来てきた周遊切符を確認すると、私の案より更に−段有利な組み方に変わっていた。
あとは必要最低限のお金と衣服の準備のみである。金はほとんどが食費である。衣服といっても、一張羅の学生服があり、旅行だからといって大した準備は要らない。学生服は詰襟で、下に着ているものが少々汚れていてもー向気にならない。当時は毎日下着を替える習慣もなかった。この旅行では下着を替える場所も殆どなかった。
それでは、そろそろ旅行開始の日の学校での様子から書き始めよう。本当は「書き記すに値することは何もない」と“謙遜ではなぐ”思っているが、私に書かさずにはおかない怖い“例の人 石松さん”が許してくれないのである。
以下の文は、一見当時の日記風であるが、四国紀行の場合と同じく、現時点からの論評なども入り交じる“時制混乱文体”という独自のスタイルとなる。
<1日目:11月2日>
終日、熱い油から発する臭いの中で実験を続けた。
卒論実験のテーマが食用油(魚介類の油)の過酸化物の分解に関わるもので、エ学部応用化学科第2講座を選択した6名が、別々ではあるが似たようなタイトルの実験と卒業間際までの半年間取組んでいたのである。私は自分のテーマ名が何だったかもウロ覚えであるが、誰かのテーマが“イカ(烏賊)油の過酸化物の〜”であったことを引き合いに出して説明することがよくあった。“ドコサヘキサエン酸メチル”などと言っても、「何のこっちゃい?」となるだけであるから。
それは「卒論で何をやってますか」という問いに対して答えるときのことであるが相手の反応は「イカに油なんか含まれているのかい?!」で終わってしまい、それ以上に突っ込んだ質問を受けたことはない。
我々の指事教官は福住助教授だった。名は態を表すというが、彼はまさに身に福が住んでいるかのような、福々しい体格と顔つきをしていた。愛称は“福ちゃん”。
その福ちゃんは東大卒後、ドイツ留学の経歴があり、外山教授の油脂化学の訪座の助教授を勤めていた。実は、前年に、私は外山教授の授業を受けて、内容のみならず語り口の巧みさ、優しさに魅せられて、卒論の講座を選択したのだった。ところが、ひどい目論見違いをしてしまった。教授はその年で定年退官となることが決まっていたのである。最終講義の日に、教室の後ろに新聞社の記者やカメラマンが取材に来ていて初めて事情を知ったというのは、いかにも間が抜けた話であるが、私にとっては初耳だったのだから仕方がない。
段々、旅行と縁のない話に脱線して行くが、私の当時の状況描写、個人的な時代考証の一種と思って、我慢していただきたい。
私には、誰でも知っている、大事な情報の受取り・収集が欠落していることが幼い頃からしばしばある。小学校の時の通知表を見るとそれが如実に表れている。国語の成績で“聞く能力”とか“聞き取る能ガ’といった項目がいつも1ランク低い評価になっているのである。「そんな能力を先生はどうやって評価していたのだろうか」と思うのだが、中学になっても、高校でも同じだった。 −
私は授業中でも空想を巡らすことが多かったので、上の空で先生の言うことを無視しているように思われていたのかも知れない。聴力検査で集中して聴く能力なら、今でも高低全周波数帯で問題がないことを確認済みである。
実験室の場面に戻る。
油の過酸化物の分解実験では、オイルバスと枝付きフラスコ、それを支える支柱、ブンゼンバーナー、それに油温を計る温度計が装置のすぺてである。附帯設備として窒素ガスのボンベがあり、沸騰している油が空気に接触して新たに過酸化物を生じないように絶えず窒素ガスを吹き込むようにしていた。なお、フラスコの底には突沸防止のピラリーを入れることになっていた。これはガラス管を溶かして細く引き延ばして3〜4センチの長さに切取り、一方の口を溶かして封じるだけだから、随時自分たちで作って使うのだが、それが苦手だといって私に頼む人が多かった。
私が−週間ばかり旅行すると聞いて、前記の悪たれ「犬のションベン旅行!」を口に出した野口君が、「ピラリーを作れる者がいなくなる。今のうちに一杯作り溜めしておいてくれないか」と哀願口調で頼み込んできた。
それでも夜明け近くに少しはまどろむことができた。4人の誰よりも早く目覚めると、列車は東京都内に入っていた。東京タワーが黒く影絵のようにそびえ立ち、その向こうに赤々と燃える巨大な太陽が登り始めていた。
私は新橋で下車して、駅構内にある公衆浴場に入った。それは、以前に父が東京へ行くといつも利用していた施設であった。
<2日目:11月3日>
千葉駅に着いて、やっと朝らしい賑わいのときを迎えた。普段はもっと.人が多いと思われる。今日は祝日で、駅舎の前にも国旗が出されていた。
総武本線で銚子まで行き、銚子電鉄に乗り換えて犬吠埼までたどり着いた。切符を出して改札口を通り抜けようとすると、「これは違います!」と改札員に呼び止められてしまった。私の持っていたのは、バスの切符だったらしい。電車と同じ会社だったので、まったく迷うこともなく、連絡のよい電車の方に乗ってしまったのである。「遠くから来た者で事情が分かりませんでした」と詫びて、見逃してくれるよう頼むと、「バスの方が高いので、変更すると割戻しが‥・・」と言い始めた。「そんなものは要りません。先を急ぐので失礼します」といって外に出た。
岬は風が強く、荒々しい波が押し寄せていた。それをカメラで2,3枚撮り終わるとすぐ帰路に就いた。景色を見たくて来ているのではないし、景色など、絵はがきで見ても大して変わりないという気持ちだった。
成田線の香取で下車して鹿島線に乗り換えた。目的地は潮来である。これも潮来に行くことより、そこが茨城県の片隅にあることに狙いがあった。そこへ行けばこの日に千葉と茨城の2県がクリヤーできたことになる。しかし、これは旅行から帰ってから気付いたのであるが、茨城県は北海道へ行くとき、既に一角をかすめ通っていたので、今回わざわざ行く意味はなかったのである。
潮来は歌謡曲で有名になっていた。しかし、観光客の殺到するのはカキツバタだかアヤメ、ハナショウブだかが咲き誇る時期であり、こんな11月に観光目的で来ている客は一人も見かけなかった。いくちよい時期に行ったとしても、花嫁さんが舟で行くところなど観光用の見世物でもなければ見られないだろう。
少し大きな川に水運橋という木造の橋が架かり、その命名のいわれなどが看板に書いてあった。これが渡るのも怖いオンボロで“衰運橋”と改称した方がふさわしいと感じたものである。
“水郷潮来”という表現がある。作家吉川英治は、愛知県海部都南部を“東海の潮来”と呼んだそうだが、それは私の郷里海部郡七宝町(当時は村)より南の弥富、蟹江、十四山辺りのことだろう。潮来は、確かにその辺りの風景と近似していて、私には特別変わった場所に乗たという感慨はなかった。
香取から三つ東京寄りに下絵神崎という駅がある。ここは初めての北海道旅行の際、上川から網走へ向かう手中で知り合った3人の女性の内、名前まで知ることになった唯一の人高橋さんの出身地である、。当時はまだそこに住んでいた。彼女にはこの旅行のことをずっと後まで知らせなかったが、翌年私が就職し9月に初めて関東自動車へ出張した折、翌日が日曜だったので駒込寮にもう一泊して、絵武上野駅で会い、上野美術館、銀座森永、新宿御苑などを案内してもらった。
最後には新宿のラ・セーヌという建物の7階でポピュラーミュージックの演奏を23時近くまで楽しんで別れた。そこはフロア毎に歌謡曲、民諌などの実演が行われていて喫茶料金300円を払うと時間制限なしに居座り続けられた。ワンステージ1時間程度だったと記憶する。短い休憩のときに席を立つ人が多かったが、我々は追加の飲み物のオーダーを取りに来る店員を追い払いながら5,6時間も粘った。
ここのステージで坂本九、尾藤イサオなどが出演していた。特に後者は激しく踊りながら歌う、パンチの利いた歌が印象的だった。“聖者の行進”を演奏する楽団は、興が乗ってくると舞台から降りてきて客席の通路を歩き回りながらの演奏となった。客の鼻先にトランペットを突きつけて吹いて驚かせたりして、周りの客から盛大な喝采を受けた。
彼女は新宿に姉が居るということで、夜が更けるのを気にしない様子だった。ただときどき、おかしなことを口走り、この日は親と喧嘩して飛び出してきたような感じを受けた。私次第でトコトン付き合う覚悟のようでもあった。だが、私は夜行で帰社して翌朝から正常に勤務する予定だったし、23時30分に東京駅を出る汽車がそれに間に合う最終だつたので、終わり頃は時計ばかり気にしていた。この日の続きの付き合いがもう一,二度あれば、私は彼女に押し切られて結婚時期が5年ばかり早まっていたのではないかと思われる。これはそのときの経過と顛末を書くぺき文章でないので、この日、どんな言葉のやりとりがあったかなどは省略する。
この辺りの土地には高橋さん以外にも若干の関わりがある。高校1年のときに、銚子高校で一最上の男性が手紙をくれたことがあった。彼は小見川町の人である。私の名前を見て女性と思ったようで、「貴女と文通によって…」というような書き出しをしていた。
もっとも、世の中には“貴女”は“あなた”と読むこともあり、相手の性に関係なく使
える言葉だと思っている人がいる。中学の卒業間際に、クラスメイト相互にサイン帳にメッセージを書き合うことがあり、何人もの人(男女とも)から“貴女”という書き方をされたのは、そういう誤解からか、手当り次第に書いていて誰のサイン帳かも分からなかったためなのかは不明であるが、そういう間違いをする例を他に何度も見ている。
彼の場合は私が男性と分かっても3度くらいは手紙をくれた。そして大学受験に失敗した後、東京の姉の家から電気関係の専門学校へ通うようになった模様である。
その他、知的財産部主担当員の香取さんがこの近くの佐原市の出身である。香取という姓、そのものが香取郡とか香取町、香取神宮などと地名や場所の名に頻繁に出てくる。我が郷里で太田や武田、竹田が多いように、あの辺りでは香取もポピュラーな姓ではなかろうか。彼は昨年4月から財団法人関税協会知的財産情報センターという長ったらしい名称の団休に出向中である。
上野のアメ横に初めて行ったのも、この旅行中のこと。ここで、この年初めてのジングルベルを聞いた。
アメ横は活気があり、飛ぶように品物が売れていた。それで店に並んでいる食品の鮮度が高いことが印象的だった。それを感じたのは、むしろ現地に居るときではなくその後、新潟とか鳥取で町中を時間つなぎにさ迷い歩いていて、八百屋の店先に並べられているバナナを見て一番強く印象づけられた。東京から離れた地方へ行くほど、そして小さい町へ行くほど、いつから並んでいたか分からないような晶に法外な値付けがされていた。バナナはあまり新鮮なものより、少し斑点の出始めた位の晶の方が美味であるが、扱い傷から腐り始めているようなバナナが値引きもされず並べてあった。
あの頃は病気にでもならなければ、バナナなど食べさせてもらえない人が多かった時代である。“高嶺の花”ならぬ“高値のバナナ”は、日常生活の場で気安く登場する果物でなかったのである。
上野から高崎線、上越線、信越本線を経て翌朝新潟に到着する。二日目ともなると車中泊も気にならず、何の記憶も残らない熟睡状態で、もう−つの収穫“群馬県”も通過したことになる。
<3日目:11月4日>
新潟では到着するとどこも見ないで、すぐ港に向かった。バスのの外観が他所で見るのと違うと思ったら、ここでは天然ガスを燃料とした特製の車両を走らせているということだつた。
新潟港から佐渡の両津までの船旅は2時間半ちょっとだったが、港を出て30分位経つとピッチング、ローリングの揺れが著しくなった。私はlり空で視界もよくない甲板に出て写真を撮っていた。三脚が倒れるほどの揺れが来ても、舳先(へさき)からのシブキに濡れながら甲板で頑張り続けた;ロシア歌曲“アムール河の波”の一節を口ずさみながら。
見よアムールの波白く
シベリアの風立てば
木々そよぐ河の辺に
波逆巻きて溢れ来る水
ゆたかに流る
自由の河よアムール
麗しの河よ
ふるさとの平和を守れ
岸辺に腸は落ち
森渡る風に
さざ波こがねを散らす
平和の守り
広きアムール河
我が船は行く
しぶきをあげて
舳先に立てば波音高く
開け行く世の幸を讃えゆく
両津では3時間弱の停泊後、同じ船が新潟に引き返す。それだけ時間があれば、近くの一ヵ所位は有名な場所なり、事物を見られるかと期待していたが、その前にこの日、初めての食事をしようと思って大衆食堂に入った。そこは中華物が主休の店だった。壁一杯に料理名を幸いた張紙がしてあって、その中に見慣れない品があった。値段もー番高かったが、大したことはない。「話の種にでもなれば安いもんだ」という感じで注文した。
これがまた、大失敗だった。30分経っても出てこない。後から入った客がラーメンなど、手近な品を頼んで食べ終わり、次々姿を消して行くのに私だけが最後まで待ち続けることになってしまった。その料理の名前が何だったのか、きっと今ならありふれた品に違いないのだが、どうしても思い出せない。
こうなると、それからでも間に合う場所を探そうという意欲までなくなる。結局、目の前の郵便局に寄り、3枚ばかりペンフレンドへの葉書を書くだけで、船に乗り込むことにことになった。
タラップを登りながら桟橋に目をやると、そこに大きな看板が立っていた。それに誰かの短歌が書かれていた。佐渡を訪れて帰るときの心境を詠んだもので、短歌そのものは覚えていない。「たった10日ばかりの滞在だったが、いざここを去ろうとすると、後ろ髪を引かれる思いがする」というような内容で、暗に「土地の皆さんから温かいもてなしを受けたことが何にも増して嬉しい」という意味を含んだ歌でなかったかと記憶する。
私の場合は、そんな感興も何も感じる暇がなかった。「料理の出るのが遅かった」という惨めな思い出だけを残して去った私は、佐渡の歴史始まって以来の珍客であったかも知れない。
新潟に舞い戻ると、もう夕方。観光施設があるかどうかも知らないが、知っていたとしても、もう間に合わない。繁華街をうろつき、デパートの店内を当てもなく巡り歩き、やがて閉店となって外にでる。街全休も次第に灯を消していき、屋台とか居酒屋くらいしか開いてないという状態になった。
この夜に乗車予定の列車は新潟を通らないため、新津か吉田まで行って乗らなければならないが、そんな小さい町に早く着いても時間をつぶすのに苦労すると思って、新潟市内の街らしいところを隈無く歩き続けた。
こういう場合に何もせず、じっと待つことが私には一番苦痛なのである。
例えば、山の中でバスを待つとき、30分の待ち時間があったとする。そして周りには何も気を引くものがないとしたら、次のバス停まで歩くことを考えてしまう。そのバス停が予想以上に遠くて、なかなか行き着かないとしたら、「途中でバスに追い越されてしまう!」と焦って走り出すだろう。そんな苦労をしても、ぼんやり立ち続けるよりはマシと考える人間である。
鄙びた列車で海岸沿いを通ったような記憶があるから、吉田の方に出たのだろう。そこで乗り継いだ長距離列車は、ほんの少しだが空席があった。しかし、次の駅で高齢の婦人が乗ってきて、私のそばに立ったのを見て、迷わず席を譲ることにした。
それは親切心からとは言い切れない。「ワンボックス4人掛けで、窮屈な座り方をしているよりも、床に新聞紙を敷き並べて寝た方が楽だ」と旅慣れた先輩から聞いていたことを実践するのに、またとないチャンスだと思ったのである。
車内に暖房は入っていたが、窓際の席で片側がひどく冷えるという状態よりも、床に寝ている方が確かに快適だった。“床暖房”という言葉を当時はまだ知らなかったが、背中からホカホカ暖められるのは言葉に尽くせぬほど気持ちよかった。列車の振動騒音さえも疲れた身には揺り駕籠と子守歌くらいに感じられた。
数時間後、「学生さん!どうもありがとうね。わたし降りますから、ここに座って下さ
い」と揺り起こされた。そのお婆さんが客車から出ていってから次の駅までに随分時間があった。隣の席の人が「あの方、時間を間違えて早く席を立ったのじゃないかしら」と言つていた。
<4日目:11月5日>
富山で長時間停車となったので、プラットフォームに降り立ち、屈伸運動など軽い体操をして顔を洗った。ここの売店で飲んだ牛乳が実に美味しかった。それは北海道で飲んだのより確実にうまいと思った。
以来、現在に至るまで富山に立ち寄ったことは5回以上あると思うが、その都度、駅で牛乳を飲むようにして来た。しかし、私のそうした思い入れが裏切られなかったのは3回目くらいまでだったように感じる。最近は取り立てていうほどの味でないというのが私の
感想である。この間にどういう事情の変化があったのか、知りたいものである。単に私の休の状態変化によるのだろうか。
富山駅の牛乳のことを書いたついでに、その頃のもっと身近な牛乳についても触れておこう。時期と′しては昭和36年にトヨタヘ入社してから暫くの間で、私が生協や寮の食堂で飲んでいた牛乳のことである。
豊田牛乳10円、さくら牛乳11円。これが当時の値段だった。どちらも生産者は豊田乳業という豊田市白山町に今でもある会社。この1円の差は何なのか、つまり、乳牛の種類が違うのか、加工方法の違い、または加工そのものの有無なのか、これまた事情は知らないが、価格差以上に昧の差があった。
一昨年の夏過ぎに名古屋で材料技術部の男性と主として日進研修所の女性の集団見合いのようなことを実施したときに、女性側の人数が足りなくて元材技の人で、某会社役員のお嬢さんに参加してもらったら、彼女が幼友達を連れてきた。その人が豊田乳業勤務だったが、そんなことを聞いても分かる筈がない。それより今駒(こんま)という珍しい名前(姓)から「元非金属材料課にいた保さんの孫に違いない」と確信して尋ねたら、そのとおりだった。、
最近、ある地方の畜産連合会が原乳の不足から脱脂乳を混ぜた牛乳を未加工乳であると偽った表示で出荷したことがバレてニュース報道されていた。こんなことは希でないのではないかと思われる節がある。
「この牛乳はバカに薄いじやないか!」、「へい、乳牛が夕立に遭ったもんで〜」という小話がある。これはまったくのジョークなのか,その日の天候や気候で相当左右されるものなのだろうか。同じ銘柄の牛乳を配達で飲んでいても、随分味のバラツキを感じることがある。自然にそうなるものなら仕方がないが、消兼者に分かりにくいことを盾にして“不正が当たり前こ横行している”ということでないようにと願うものである。
いつものことながら、ひどい脱線をした。
この日は金沢で下車して兼六園を見たのが唯−の観光であった。
兼六園の“兼六”とは、宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望の六つを兼ねるという意味であるという。前田安手二代藩主利長の時代に作庭が始められ、文政年間に修復されて現在の形に完成された、池泉回遊式の庭園ということらしい。日本三名園の一つに数えられていることは有名であるが、私が前の年に見た高松の栗林公園が入場料を取っていたのに対して、このときの兼六園は無料開放されていた。市民の憩いの場所として親しまれていることが、園内を散策する人の様子からも感じられて非常に好ましく思った。最近は観光客の多さから当時の面影もない。それに、入場料も取るようになっている。
公園までの交通は市電だった。坂道と曲がりくねった道が多く、それに街全体が木立ちの中にあるように、樹木が多いという印象を車窓から感じた。これも最近になって車で町中を走った範囲では当時と大きく変わってしまっている。広い通りができて便利になった反面、失ったものも大きいのではなかろうか。この辺りのことは学生時代をこの町で過ごした伊勢さんに尋ねてみたい。
金沢から京都へは準急に乗ったが東海道本線の準急とは大変な差があることを感じた。実に速度が遅い。停車駅が若干少ないのみで、準急券を買い足した御利益が全然感じられない。とはいっても、普通車に乗ったらもっと時間が掛ることは目に見えている。とにかく、交通事情の地域格差が大きいということである。
車中では前の席の男が吸う煙草の煙に悩まされ続けた。
この地方出身の国会議員らしく、胸にバッヂを光らせて付き人に横柄な口の利き方をしながら、一時も絶やさず吸い続けた。いわゆる、チェーンスモーカーである。
私は煙や煙たいことが大嫌いである。それは小学校の頃から手伝わされた風呂炊きの体験から来ている。我が家は煙突のない五右衛門風呂を藁(わら)で炊いていた。それは木の桶の底が鋳鉄製になっていて、直下から炊く。三方は囲ってあるが、炊き口が排煙も兼ねていて、天井の一部に開いた開口部から外へ排出するという構造だった。風のない日なら問題はないのだが、南風が吹いて煙を逆流させると炊く者にとって最悪の状態となる。そして、その場所のみならず家中が煙ってしまう。だから、建築後百年近い我が家の柱、とくに梁や屋根其の構造部材は煤で真っ黒だった。
ただ、家に煙が充満するかどうかは、風向きだけによるものではない。母が炊けばそれほどひどい状態にはならなかった。藁を投げ入れる量とタイミングにより煙の発生具合は大違いだからである。私が炊くと煙のみでなくしばしば炎まで噴き出して、燃料の藁使用tで母と大差が付いた。そうした風呂炊きにも慣れた頃、中学1,2年生頃になって銅製の風呂釜で木切れを使って炊くようになった。桶下部の横から、釜で温まった水を送り込み、循環しながら沸かす方式である。その頃は藁が高値で売れるようになっていて、燃料に使うのは勿体無いということだった。藁は瀬戸物の梱包で緩衝材として使われて、一束が20円から30円近い値で売れた。
風呂炊きで煙にむせながら涙を流した体験から、私は煙嫌いが人一倍強いし、煙の出るものは皆きらいである。タバコにしても「絶対吸わない!」と幼い頃から決めていた。しかし、タバコに因んだものなら何でも嫌いということではない。例えば、近江俊郎の歌った“黒いパイプ’という歌謡曲は、もっとも好きな曲の一つである。これぞ名曲と思うが余りにも古く、さほどヒットしなかったためもあってか、カラオケルームの曲目の中に出ていないのが残念である。
君にもらったこのパイプ
昼の休みに窓辺に寄れば
黒いパイプに思い出映る
黒いパイプに思い出映る
君はいまごろ何してる、
手紙書こうと筆取れば
黒いパイプに思い出映る
黒いパイプに思い出映る
旅行中の場面に戻る。
あの車中では、混み合った車中で逃げ出すこともできず、「なぜ、この世の中にタバコなどという野蛮なものがあるのか!」と憤り「いい加減に止めろ!」と議員殿の顔面めがけてパンチを食らわせる衝動に囚われそうだった。
こんな不愉快な車内でただ−つの救いは、次々現れる駅名が難読珍名続きで、飽きなかったことである。松任/まっとう、石動/いするぎ、動橋/いぶりはし,等々。
こんなに珍しい地名が多いのは、宮崎県の日之影線以外では例を知らない。(アイヌ語の地名に当て字した北海道は例外である)。延岡から高千穂へ向かう日之影線は今では高千穂鉄道となっているが、それこそ「こんな漢字があったのか」というように文字から知らない難読駅の連続だった。その中で具休的に、私がいま思い出せるのは行縢(むかばき)のみである。
ムカバキとは旅、乗馬、狩りなどの時に腰から下に付けた用具である。手元の辞書で今確かめたが、どんな形をしていたのかまでは示されていない。行縢の近くに行縢山という山があるから、その山の姿がムカバキに似ていて付いた地名だろう。昔の人は茶臼岳、飯盛山など日頃の生活に密接した地名の付け方を多くしているが、中でも馬は大切な働きをしていたので鞍ケ池、駒ヶ岳、白馬岳、中馬街道、・・・と馬に因んだ地名はとくに多い。
注:広辞苑にはムカバキが図入りで解説されているとのこと。向こう脛を狂う長さ
3.6尺の防具で万葉集にも出ているらしい。
夕方、京都に到着して頂源院(従兄弟が住職をしている親戚の寺;新京極の東隣の裏寺町)に立ち寄った。了さん(義理の伯母)は買い物に出掛けていて、長女の暢子さんがいた。「すぐ帰ってくると患います。さあ、上がってください」と勧められ、隣の部屋で手荷物を整理しているところへ了さんが戻ってきた。何やら大声でわめきながら玄関の
戸を開けた。そして見慣れない靴に気づいて声の調子が変わった。
「ノブコさん、どなたかお見えになってはるのか〜」
「遠島のお兄さんが来やはってるねん」
私はすぐ顔を見せて挨拶した。
「また、連絡もせんで寄ってしまいました。いま、旅行中で、今夜はもうすぐ夜行
で出雲の方へ行きます」。
了「そう、今度は山陰の旅行でっか」
私「いや、山陰も目的地の−つですが、2日に東京へ行って、次の日、千葉と茨城へ行って・・・」
了「それじゃあ、ぜんぜん方角が違うやないの」
私「そうです。佐渡へも行って、今日は富山から金沢を経てここへ来ました。そして、
今日までずっと夜行ばかりで、宿には泊まっていません」
了「そな、大変お疲れやないの。今晩はうちで泊まって、明日の朝出発しやはったら
どうどすか。どんなに早くたって起こしたるで〜」
私「それが、あまり学校を休めないし、どうしても今日泊めて頂く訳にはいかんので
す」
了「そうでつか〜。せわしないことでんな−」
間もなく、次女浄子さんも帰宅した。
夕食後に、二人の娘は幼い頃に遠島へ遊びに行ったときのことを懐かしそうに話し始めた。
浄「門を入った右がトイレだったでしよう」
暢「お家の西側には鶏小屋があって、帰るときに卵を沢山頂いてきたわ」
浄「仕事場には職人さんが3人くらい居はったわね。その中に恐いオジサンがいた」(その人は頭が卵のように見事なツルハゲだったというから、“タマさん”と我々が呼んでいた人である)
私「タマさんならタマにしかうちの職場では仕事をしないで、すぐ前が自分の家だっ
たから、自宅で働いていた筈なんだけど、・・・・それに、そんな恐い人ではなかった筈だけどな−」
そのうちに話が私に関したことに変わってきた。
浄「よっちゃんはな。今では大人しそうに見えるけどな。小さいときはやんちやだっ
たんよ。わたし、押入の中に閉じ込められたりしたもん」
それを聞いた了さんが言った。
「キヨコさん、いまさら何いうねん。わたしがあなたのお婿さんになって貰らおと
思っている方に向かって−!」
そんな冗談に彼女は取り乱したように騒しヽで、母に抗議するのだった。その激しさに私の方がもっと驚いた。あの騒ぎは、ひよつとすると日頃から内輪でそんな会話があることを「バラサレテシマッタ」ということではなかったかと感じたものである。
そのあと、私が連続夜行に乗って旅行中であることが話題になると、
浄「旅行に行って楽しいのは旅館に着いてからやん。どこも泊まらないなんて、面白
うないわ」
暢「あんたは宿に着いて騒ぎたいんやろ。お兄さんは、汽車の旅、そのものを味わっていやはるのや」。
やがて、浄子さんは翌日会社の同僚と行楽に行くための準備に掛かった。嵐山か、どこかの行楽地へ出掛けて、屋外でテンプラを作るのだそうだ。それに暢子さんがケチを付けた。
暢「行楽に行ってテンプラを揚げるなんて、聞いたことないわ。風の中でテンプラな
んか揚げたって、うまく揚がる筈ないでしょう」
了「なあ、キヨコはん、ノブチャンも連れて行ってあげて−な。羨ましくて、あんな
こと言うんやさかい。どなたかに見初められたいんとちゃうかな−」
浄「いいわよ。でもね、今度行くのは今年一緒に入った高卒の子ばかりなのよ。男の子も来るけど、年上のオパテヤンなんか相手にしてくれんと思うわ」
浄子さんは、その年の春に松下電器に入社したところだった。2歳上の姉は京都銀行に勤めていた。浄子さんは「お姉さんのような小さい銀行は嫌や。私はもっと立派な銀行に入るんや」といって、大銀行を幾つか受験して、いずれも学科試験にはパスしたが、“姉が他の銀行に勤めている’’ということがネックになって、合格させてくれなかったとのこと。
私が翌年卒業してトヨタに入社することが決まったと囲いて、「トヨタは日本一の自動車会社や。でもな、松下かって立派な会社やと思うわ」と了さんに語りかけていた。彼女は誰に対しても対抗意識の強い女性のようである。
潮時を見て、私は京都駅に向かった。
<5日目:11月6日>
京都から出雲は大した距離でないが、夜行で行くには山陰線の列車の遅さが幸いして、ちょうど良い時間に到着する。
出雲から出雲大社へは別の線に乗り換えて行くが極めて近い。この辺りは稲刈りの時期だった。車窓からの景色は、右も左も取り入れ前後の田圃ばかり。
出雲大社は、全国の神社の総元締めという神社だけに境内の広さが印象的だった。拝殿に釣り下げられているシメナワ(注連縄)の巨大さにも圧倒された。長野県の諏訪神社のシメナワも大きいが、とてもその比ではない。
そこで私は参詣の人が途切れるまで気長に待った。これから始めることを、誰にも見られたくなかったからである。
私はまず三脚を立てて、カメラとセルフタイマーをセットした。そして級友の二人柴田君と安藤君から預かった願い事の紙を開いて、読み上げるところを撮影した。
柴田君の分は賽銭が1円玉3個のみだった。彼は「お賽銭はそれで十分だ。別に、君には餞別をやる」と言って、財布の中の小銭を全部くれていた。全部と言っても、20円か30円だったと記憶する。私は餞別の金もー緒に賽銭箱に投じて、願い事を読んだ。
「我に美女を賜らんことを!柴田耕作」。
「俺、いま金持ってないんだよ。これで頼むわ」と言う安藤君から預かったのが、パチンコ玉数個だった。賽銭箱にそっと入れたがしばらく転がる音が続き、私は噴き出しそうになった。願いの言葉は、「パチンコが儲かりますように!安藤逸平」と夢のない内容だつた。
“夢’’と書いたついでに、ここで記録しておきたいことがある。それは数日前の帰宅時に辛の中で聞いた話の受け売りである。
日本語の“夢”と英語の“dream”の違いについてである。前者は実現しないもの、償いものというイメージが強いのに対して、後者はいずれは実現するもの、叶うものというイメージの言葉であるとのこと。これは日本語と英語の違い以外に、人、それぞれの心掛けにも関わることであり、日本語の“夢”だってポジティブに捉えて行動している人物は珍しくない。
世間では、前向きな希望を強く抱き続けることによって、どんな自分にもなれる (生きたまま生まれ変われる)というような本や、発想法の広告がよく目に付く。後者の中には入会すると数百万円も要求されるものがあり、気の弱い人は一旦見込み客としてリストアップされると逃れにくい場合があるので要注意である。
そんな悪徳商法の方法に拠らなくても、否、拠らない方が夢は実現できるものである。ただ、いわゆる夢想をしているだけでは駄目で、強い意志を持ち続け、それなりに努力することが必須である。袖に祈るだけでも駄目である。「神に誓ったから、もう後には引けない。やり抜くのだ」という姿勢でなければ如何なる神も手助けはしてくれないだろう。
さて、出雲大社まで行って、柴田、安藤の二人のための廉い事は形ばかりであってもやつてきた。では、自分の為には何をお願いしたのかということになるが、実のところ、何もしないで写真がまともに撮れるかどうかばかりに気を取られてしまった。
大社前の鳥居を出て左側に大きな土産物の店があり、食事もできるようになっていた。そこでこの日初めての食事をした。この日に限らず、旅行中は殆ど朝昼兼用の食事しかしていなかった。
店を出ようとした時に、家族で来ていた老人が「財布がない!」と言って騒ぎ始めた。「つい、先棲まで確かにあった」ということで、店内を隈無く探し歩いた未にそれが勘違いで、自分の内懐に入れておいただけだったことに気付いた。だが、彼は「ありました〜。ありがとうございました〜」と財布を両手に捧げ持ってお辞儀を繰り返した。そして、いうことがふるっていた。「これは出雲の神様のお陰だ。さっきのオミクジに失せ物出るというお見立てだった。まさにその道りになりました。ありがとうございます。ありがとうございます。・・・・」。こんなことで有り難がられるのは、出雲の神様の人徳ではなくて神徳であろうか。神様とは実に得な存在である。
境内にいるときに、私もオミクジを引いてみた。それにはあまり思わしいことが書いてなかった。病重し、金運よろしからず、‥=といった見立てが目白押しに並んでいてがっくりだった。私は「もう一つ引いたらどうなるか」と思って10円玉を箱に入れた。しかし、開けるのは思い留まって、そのまま持ち帰ることにした。
もし、それを開いて。また納得が行かなかったらどうするだろう。際限無く繰り返すのは馬鹿げている。それに10円玉の手持ちは切れて、育円札しかなかった。私はオミクジでも赤い羽根でも、一つ10円だからといって、オツリを要求するのは相応しくないという感覚を持っていた。百円を寄進するほどリッチではないし、百円を入れたから当然という顔をして10個も持ち帰ることにも気が引ける。そうしたささやかな葛藤の末の結論が一つのみ入手して、開かず持ち帰ることだったのである。
私が開けたオミクジは散々なことが書いてありながら、一つだけ喜ばしいことが書いてあった。“旅立ちよろし”。
病重く、金回りの悪い人に旅立ちが良いという見立てが支離滅裂のように思えて、信憑性を疑った。しかし、こういうものは良い見立ては素直に喜び、悪いお告げには自らに慢心があるのではないかと自戒して気持ちを引き締めれば良いのだということである。その後で、上のジイサンの空騒ぎがあって、「私もあの素直さを見習わなければならない」と思った。
出雲から鳥取までは約150キロ。普通車で行くと5時間近く掛かる。現在の時刻表には昼近くの急行は載ってないが、当時は急行があって、それに乗ったものと思われる。それでないと、この日に鳥取砂丘を見られなかった筈だから。
私が覚えていることは、安来、米子辺りから右手窓に大山が見えたことと、居眠りしたいのに、隣の席の客が先行して眠り込み、私にしなだれかかってくるのが邪魔で眠れなかつたことである。それは大変迷惑であったが、同時に、この上なく嬉しいことでもあった。隣の客というのが長身でグラマーな飛びっ切りの美人だったからである。柴田君のために祈った願い事が、早速、私への御利益となって実現したということかも知れない。
鳥取で下車して砂丘を見に行った。駅前には日の丸交通ともうー社(日本交通?)のタクシーがひしめき合っていた。そのいずれもトヨタのクラウンだった。バスも同じ会社の経営で頻繁に砂丘行きを発辛させていて、20分ほどの距離だった。
バスから降りると、そばの土産物屋が藁草履を貸してくれた。「革靴では砂が一杯入って歩きにくいですよ」といいながら。
砂防林として植えられた背の低い松林の中の道をかなり長く歩いて、やっと砂丘にたどり着いた。絵葉書で見る砂丘は風紋という美しい波形の筋が一面についているが私が現実にみる砂丘は足跡だらけであった。かなり険しい丘の斜面にまで一点の隙間も無く縦横斜め全てに足跡が連なっていた。
丘の上まで登って下を見ると、麓が見えないほど急な勾配になっている箇所もあった。とても歩いて降りられないという感じがしたが、ここにも変わらぬ間隔で足跡があったので私も試してみた。少し歩を早めると止まれなくなり、転がり落ちるように下まで降りた。転がれば全身砂にまみれるが、怪我をすることはないだろう。
夜間に強風が吹いた翌朝早く行かなければ、あの風紋は見られないだろう。そんな景色を見てみたいと思いながら駅前に戻った。
それから夜中の列車まで待つ時間の長かったことは、今思い出してもぞっとする。
街を見るといっても駅前の商店街が少しあるのみで、どこも行く場所がない。駅構内の待合所で神棚のように高い場所に設置されている古びたテレビで興味もない番組をひたすら見続けるより仕方ない。そのときの放送で一つだけ記憶があるのは、推理小説まがいのドラマの中で密室殺人があり、そのときの凶器が何かを5人の回答者が当てるというものだった。答えは「柱時計の長針を使った」ということだったが、着衣の上からそんなもので人が刺し殺せるものかと疑問に思った。
常連の回答者の推理力は大変なもので、聴視者をいつも感嘆させていたようであるが、この日ばかりは意表をつかれて全滅だった。
注:この文章の下書きをある方にチェックして頂いたら、「それはNHKの“私だけが
知っている”という番組だと思う。作家の有言佐和子さん、三井不動産の江戸川さん等が出演していて、毎週楽しみに見ていました」という補足情報が寄せられた。
そんなテレビ番組も終わり、放送時間が終了してからの待ち時間の長さが、居たたまれないほど長かった。
<6日目:11月7日>
帰路のルートは憶えていない。ただ、姫路辺りから大阪の短大生3人と同席し、彼女らも山陰の旅から帰るところと知っていろいろ話したから、因美線、姫新線、山陽本線を経由したものと思われる。その連中は鳥取砂丘の他、日御碕灯台、松江城、宍道湖などを廻つたという。
私が名古屋から来ていることを話すと、3人揃って「意外!」という態度をあらわにした。同じクラスに名古屋出身の人がいて典型的な名古屋弁を喋りまくるのだそうだ。そして意味不明な言葉は多くないけれど、アクセントが独特で「名古屋の人は皆あんな話し方をするんかと思ってたわ」ということだった。
彼女達だって関西靴りの話し方を平気でしているのだが、そういう人達の中で名古屋弁を使っているという見知らぬ人の勇気を讃えたい気分だった。私は尾張靴りを押さえた話し方をするように日頃から努めていたが、「東京の人かと思ったわ」と言われたのは少々過剰評価だった。
今度は京都に立ち寄らずに名古屋駅まで直行した。駅前はまだ閑散としていた。確か、この日は日曜だったためでもある。
疲れた顔をして帰宅すると、一連の葉書が届いていた。差出人は名古屋大学工学部応用化学科 相良武雄となっている。そんな人は知らない。文面には、“福ちゃんの都合により11月8日と9日は実験室を閉めるので、出校しなくてよい”旨が書かれていた。
半信半疑ながら、その日と続く2日間を又とない骨休めに使うことにした。そして「そんなことならもうちょっとマトモな旅にすれば良かった」と後悔もしたが、日数に余裕があったとしても、先立つものが無かったのだから、こんな程度にしかできなかったに違いない。
<あとがき>
この旅行で新たに通過した県は千葉、群馬、新潟、富山、石川、鳥取、島根の7県だった。茨城を含めた8県に「行ったことも、通過したこともない」と思い込んで計画したコースだったが、前に書いたように茨城は組入れる必要が無かったことを、後日になって気付いた。
休み明けに学校へ行くと、皆「おお、無事に帰ってきたか」の一言で済ませ、旅の様子など聞きたくもないという雰囲気だった。
「サガラタケオさんから連絡の葉書を貰ったけど、あれは誰?」と尋ねたら「判っちゃいないな。あれはアイラブユーと読むんだ」と言って笑われてしまった。
トヨタへ入社して3年日に品質管理部に異動したら、試験課へ自衛隊から入ってきた人で相良道雄という人がいた。彼の長男が生まれた時に「武雄という名前にしてはどうか」としつこく勧めたが、そんなふざけた背景のある名前を彼は選ぼうとしなかった。
この旅行で残った4県とは、山梨、長野、和歌山、奈良だった。そのうち山梨と長野は直後の12月中旬に行くことができた。第2講座の福住教授、高木講師、大学院生2名と助手の女性を含めた全員で伊豆の修善寺と箱根(泊)へ行くことになり、翌日の午後、熱海で別れて富士市から甲府、茅野、白樺湖、小諸、長野市を廻ったのである。そのとき、
安藤君、柴田君、旗智君の三人も私と行動を共にした。
和歌山と奈良は、同じく直後の正月に元旦から風邪の咳と発熱を押して紀勢本線で廻った。いずれも旅館には泊まらなかった。
以上で、1都1道2府42県の全てを少なくとも一度は通過したことになった。夜間、
車中で眠っている問に通ったというところも多く、まったく何の思い出もない県が幾つかあるが、一応、自己満足できる状態にまで学生のうちに到達できたという訳である。
その後、沖縄が日本に復帰したので、それを埋めなければという気持も少しはあるが、いまさら馬鹿な目的で行くのは気恥ずかしい。女房初美に沖縄行きを提案すると「私はパスするから勝手に行ってきて−!」ということになる。彼女と沖縄は決して馴染みのない土地ではないのだが、異常なまでの蛇嫌いがその言葉を吐かせるのである。「ツアーで沖縄に行くとハブのショーがあるから、絶対に嫌!」ということになってしまう。
彼女が名古屋の短大に入ったとき、県内在住者は自宅通学が義務づけられていたが「交通の便が悪い」ということで特別に寮へ入れてもらった。3人部屋の相棒の一人が沖縄出身の田港さんという小柄な女性だった。他に、もう一人沖縄出身者がいたがその方は沖縄本島からまた船で半日以上掛かるという離島の人だった。
同室のあと一人は額田郡の山奥から来ていて、足助の初美と同じような理由で入寮させてもらっていた。県内からの二人は最初の年はホームシックが強くて、毎週土曜に帰省していたらしい。田港さんの帰省は年に一度がやっとで、二人が抜けた部屋に独り残されて週末はいつも泣いていたのだそうだ。それを卒業後20年も経ってから聞いて、「本当に悪いことをした」と初美は詫びたというが、当時はそんなこと何も気付かず、一刻も早く家に帰りたい一心だったきうだ。
沖縄の二人を足助に連れてきたこともある。平戸橋を渡って、勘八峡まで来たとき地名を話したら、ニ人が突然大笑いしていつ迄も笑いが止まらなくなった。何事かと尋ねると「カンパチというのは沖縄ではハゲのことなの」ということだった。
私の長女が南荻窪で一緒に住んでいたのが沖縄の女性だった。彼女と夕食を共にしたときに、その話をしたが“カンパチ”は沖縄の中でも限られた地方の方言だったのか、あまりピンと来ない様子だった。
私のペンフレンドにも沖縄の高校生、砂辺初子さんがいた。彼女とは2,3通のみでどちらからともなく途絶えたので詳しいことは知らない。北谷村桃原という地名でなかったかという程度である。
そして今、私は沖縄と縁の深い仕事をしようとしている。それは塗装の天然暴露テストのデータを多変量解析して見易く分かり易いまとめをしてライン業務部暑の方々に活用してもらおうという目論見をしているのである。天然暴露は本社地区でもやっているが、環境条件が不安定であまり参考にならないという。そこで沖縄に広大な暴露場を設け、専任者を現地で雇って定期的なチェックと光沢・色差の測定をしているのである。
私の仕事の成果次第で、沖縄への関心が一層高まることが予想される。その場合は私に残された最後の県沖縄を自分の目で確かめてみることにしよう。
完 |
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